-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈18〉住田智見
(『すばる』739号、2017年12月号)

住田智見肖像画(祐誓寺所蔵)

        住田智見肖像画(祐誓寺所蔵)

※写真提供:同朋大学仏教文化研究所

1、同朋学園の学祖

(すみ)()()(けん)(1868~1938)は明治元年(1868)11月23日、名古屋の祐誓寺(熱田区)にて生まれ、のちに同寺の住職を務めた人物です。名古屋の尾張教校を卒業後、明治20年(1887)に20歳で真宗大学へ進学しています。その後、真宗尾張中学や真宗大学・真宗大谷大学の教授を歴任します。一方、宗門で最も大切な講習会である(あん)()にて、次講を1回、本講を3回講じており、学校教育ならびに宗門教学の発展に尽力した生涯を送りました。

住田が生まれ育った尾張の地における近代的宗門教育機関は、大正10年(1921)6月13日に文部省から認可をうけて、名古屋別院境内へ設けられた「私立真宗専門学校」にはじまります。それは現在の(どう)(ぼう)(だい)(がく)を含む同朋学園の前身にあたります。住田は学校長の職には就いていないものの、設立に果たした功績から、学祖と位置づけられています。

2、清沢満之やその同志との関係

いわゆる「近代教学」の源流に位置づけられる(きよ)(ざわ)(まん)()(1863~1903)と同郷でもある住田は、その生涯で清沢と何度か出遇い、影響を受けています。清沢の入寺した西方寺(愛知県碧南市)へは、明治34年(1901)12月と翌年12月の少なくとも2度、訪ねています。明治35年に訪れた際には、「君も随分理屈を言うな」「君は唯お念仏が申されぬか」と言われ、以後住田は理屈ではなく、本願の尊きことを思い、念仏申す身となったと伝えられています。

また大正5年(1916)にはじまった、江戸期の学寮講者の講録類を掲載した叢書である『真宗大系』の刊行事業には、編集顧問として、当時、真宗大谷大学教授であった住田も携わっています。その刊行会の構成メンバーには、清沢の同志であった(せき)()(にん)(のう)(1868~1943)や(つき)()(かく)(りょう)(1864~1923)もいます。

住田は、清沢やその同志と異なる学風のように、のちに語られる場合もありますが、時に切磋琢磨し合いながらも、ともに宗学の発展に寄与し、同時代を生きたのでした。

3、「尾張教学」の伝統が生み出した人と場

住田の1周忌法要後、住田の遺稿集全4巻を出版しようと刊行会が組織されました。その遺稿集の校正・編集には、住田の門弟らが関わりました。特に中心となったのが、のちに同朋大学5代学長も務めた(てら)(くら)(のぼる)(1912~2009)です。

住田の薫陶を受けた人には、その他に()()()(じょう)(1903~78)もいます。昭和49年(1974)に諏訪は、尾張出身者による学事などに関する論考を『尾張教学先覚伝考』と題する一書にまとめています。また平成2年(1990)に刊行された『名古屋別院史』通史編で寺倉は、住田の登場した時代を「尾張教学」の全盛期として論述しています。

「尾張教学」大成者としての住田の学問は、江戸期からの「伝統宗学」を継承しつつも、近代的な書誌学・歴史学も加味した新たな宗学を構築したと、評価されています。

住田のもとには数多くの聞法者が集いましたが、その一人である(すぎ)()()()(1986~1970)は、名古屋駅のほど近くにあった居宅を、聞法の場として提供していました。晩年に知代は、知己の間柄であった寺倉に相談し、その居宅を同朋大学へ寄附しました。全面改築されて昭和58年(1983)に竣工した「()ぶん(かい)かん」と称するその場は、現在も公開講座や研修などで利用されています。このように人と場を生み出した「尾張教学」の伝統が、今もなお尾張に息づいているのです。

参考文献

松金直美「尾張教学」(教学研究所編『教化研究』第161号、真宗大谷派宗務所、2017年)

松金直美「「伝統仏教」―近世から近代への展開―」(大谷栄一・菊池暁・永岡崇『日本宗教史のキーワード―近代主義を超えて―』慶應義塾大学出版会、2018年)

■執筆者

松金直美(まつかね なおみ)