凡夫は すなわち われらなり

法語の出典:「一念多念文意」『真宗聖典』544頁

本文著者:寺本 温(長崎教区真蓮寺住職)


あるお寺の報恩講に法話をお願いされてお世話になっていた時のことです。夜の法座が終わって、数人の門徒さんと本堂でお酒を飲んでいました。穏やかで優しそうな一人の男性が「先生、この頃青少年の惨たらしい殺人事件が時々ありますね」と切り出されました。「そうですね」と答えた後いくつかの事件を振り返りました。するとその男性が「自分の孫があんな殺され方をしたら、自分は法律など顧みず仕返しにいくかもしれません」と言われました。

とてもそんなことをしそうな人には見えなかったので一瞬ぎくりとしましたが、でも、そんなことはすべきでないことを重々承知の上での言葉だったと思うのです。それほどまでにお孫さんがかわいいという思いの中で、親鸞聖人がお念仏のはたらきによりいただかれた「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(『歎異抄』真宗聖典六三四頁)という言葉によって、自分自身もまた凡夫であるという深い頷きから出てきた言葉だったと気づかされました。

教育委員を十数年させてもらっていますが、学校教育では学業やスポーツ等においてどうしても「優れた立派な人間を目指す」という落とし穴に陥りがちです。それは凡夫ではダメだという人間観を教えてしまうことになります。そうなると、一生懸命に取り組んでも思った結果の出ない子ども達は、寂しい思いや取り残された感覚にとらわれてしまいます。

日本に本当の意味で仏教を伝えてくださったと親鸞聖人も尊く慕われていた方に聖徳太子がおられます。その聖徳太子が作られた『十七条憲法』の十条に、

我必ず聖に非ず。彼必ず愚かに非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ(自分だけが立派で、自分以外の人が愚かということではありません。共に凡夫がいるだけです)

という言葉が出てきます。

私たちは、ついつい他人に誇れる自分を見いだして自分の人生の価値だと勘違いしてしまいます。そこに「自分と違う生き方をしている人」、「自分と違う考えを持つ人」を非難したり見下したりしてしまいます。それによって、相容れない人を作り出して、自分と都合の合う人とのみ付き合うか、孤立してしまうことを聖徳太子は仏様の視点に立って教えてくださっています。

親鸞聖人が、「愚禿」と名告られたところに、「愚かなるゆえに聞かせてください」、「愚かなるゆえに教えてください」、「愚かなるゆえにたすけてください」ということがあると思います。

「愚か」というところに自分と違う生き方や考え方の人の話も聞こえ、出会っていける共なる世界が開けてきます。そのことを「われなり」でなく「われらなり」と「ら」の文字をつけて呼びかけてくださっているように思えます。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【8月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

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