自然というは もとより しからしむるという 言葉なり

法語の出典:「末燈鈔」『真宗聖典』602頁

本文著者:山田恵文(三重教区安正寺住職)


今から二千年以上前、中国に生まれた『荘子』という書物があります。『老子』と並び、「人為(人間のはからい)」を離れた「無為自然」の生き方を説く書物として有名です。

私は学生時代にこの書物に出会いました。そして、私たち人間は、いつも優劣や美醜や善悪、あるいは「役に立つのか、立たないのか」「損なのか、得なのか」などといったように、相対的に物事を価値づけし判断して生きているということ、そのことが物事の本質を見失わせてしまうということを学びました。そして、そのような自分を中心にした価値判断を離れて、どんな物事も受け入れて人生を楽しみ、あるがままに生きることが理想的な生き方であるということを知りました。自分の狭いものの見方が破られたようで、心が晴れた思いを持ったことです。

しかし、道理としてはそのように理解できたとしても、そのような境地に立って生きることは容易ではありません。むしろ日々の生活の中で、あれかこれかと振り回されて生きているのが実情です。親鸞聖人はそのような私たちの姿を「煩悩具足のわれら」と言いあてられ、八十五歳の時に書かれた『一念多念文意』では、命終わるその時まで、私たちは煩悩から離れることができないと言い切られました。とうてい、自分の力では「自然」なる生き方はできないのです。そこに聖人の人間を見る確かな眼を思います。

ところで、親鸞聖人が書かれた書物の中にも、話された言葉の中にも「自然」はたくさん登場します。聖人は「自然」という言葉を大切にされているのです。では、そのように人間の真実を捉える聖人の「自然」は、どのような意味を持つのでしょうか。

冒頭のことばは、聖人が八十六歳の時に、弟子の顕智に対して、「自然」という言葉の意味についてお話しになられた法語の一文です。

この文にある「もとより」とは、「そもそも」とか「本質的に」という意味ですから、「言うまでもなく」というニュアンスが込められているように思います。「しからしむる」とは、「そのようにさせる」という意味です。よって、「自然」とは、言うまでもなく私たち凡夫に対する「阿弥陀仏のはたらき」のことであると、聖人は述べていることになります。

私たちは自力では決してさとりに至ることはできない。そのような私たちを悲しんで、阿弥陀仏の願いは起こされています。その願いを受け止め、その願いをよりどころにして生きることによって、初めて「自然」なる生き方が開かれてくると言えるのでしょう。つまり、凡夫に実現する「自然」の生き方とは、阿弥陀仏の願いに託すことによってしかあり得ないということを教えてくださっているのです。自分を超えたはたらきに我が身を託すことによって、凡夫の我が身が、凡夫の身のままに生涯を尽くして生ききることができる、そのような生き方が、念仏者には恵まれるのだということを、聖人は語っておられるのだと思います。

「もとより」と言われるところに、親鸞聖人の強い思いが感じられます。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2018年版【12月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2018年版)発行時のまま掲載しています。

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