「是旃陀羅」問題を中心とする『仏説観無量寿経』の研究

はじめに

宗門は二〇一三年に部落解放同盟広島県連合会(広島県連)より、「是旃陀羅」の言葉について、『仏説観無量寿経』(『観経』)における差別を超える文脈を明確にすべく、改めて問われている。それを受けて解放運動推進本部の調整のもと諸組織が立ち上げられ、その一つに「『観無量寿経』に聞く研究会」(『観経』研究会)がある。
 

筆者は、教学研究所の「現代の聖典研究班」に所属し、現代に提起されている諸問題を通して『観経』を研究している一人である。そのこともあり、『観経』研究会では、「是旃陀羅」についての「手引書」発行にむけて研究をしている。『観経』研究会では、本年六月に高田教区聞思学場室長・淨泉寺住職の井上円氏を招き、「是旃陀羅」の課題に学ぶ研究会を開催した。また、解放運動推進本部非常勤嘱託である藤井慈等氏、片山寛隆氏、黒田進氏と共に研究会・懇談会を開催してきた。また、広島県連委員長の岡田英治氏との対話を行ってきた。
 

近年、「是旃陀羅」の語の領解については研究が広がり、様々な方が論文を発表されている。ここでは、それらの先行研究を紹介していきたい。
 

 

①西田真因氏「解説「是栴陀羅」について」

是旃陀羅」の語について宗門は、全国水平社創立以来、問いかけを受けている。そして宗門では、一九八九年に『現代の聖典』(東本願寺出版部)が改訂された。その改訂に伴って一九八八年、当時、教学研究所所員であった西田真因氏が右の「解説」を記された(なお本稿では、引用箇所に「栴」の字が用いられる場合もあるが、それ以外は「旃」に統一する)。現在では、『現代の聖典 学習の手引き』(一九九九年)に収載されている。
 

「是れ栴陀羅なり」という場合の「栴陀羅」は比喩として使われている。修辞学上の隠喩である。この場面では「悪逆なるもの」という意味である。それは母を殺そうとする阿闍世王の行為と人格・人間性への批判・非難の言葉である。したがって、それは徳の範疇の問題である。その徳の範疇の問題を徳の範疇の意味で表現せずに、政治的・社会的範疇の意味で、しかも階級的差別的枠組みの用語として表現していることが差別表現なのである。 (前掲書三四三頁)


 

このように、「是旃陀羅」の差別性が、人間性・道徳と政治・社会という異なる範疇(カテゴリー)の混同として指摘されている。「旃陀羅」差別という社会的事柄が、「旃陀羅」は悪逆であるという根拠のない理由づけにより正当化されていくのである。
 

そして西田氏は、差別発言をする月光大臣と『観経』自体の視座は異なり、『観経』は登場人物の差別的視座を転じて平等の世界に誕生せしめていくことに視座があると記す。
 

ところが、『観経』を学びながらも、経典自体の視座を把握しきれず、登場人物の差別的視座に同一化してしまう問題があると指摘されている。だからこそ、証信序から始まる『観経』の視座を学ぶことで、私たちの差別的視座を照らされ、明らかにされる必要があると、西田氏は記している(同三四四~三四五頁参照)。
 

 

②広島部落解放研究所『改めて経典の『旃陀羅』差別を問う』(部落解放研究別冊)

先の西田氏の見解に対し、広島県連より二〇一三年、月光大臣と『観経』の視座が異なることをもって『観経』自体が差別経典であるわけではないという考え方について問題提起がなされている(『真宗』二〇一五年二月号参照)。
 

そして二〇二一年に右の書が発行され、多岐にわたる問題提起がなされている。その中に収められた岡田英治氏の論文では、十項目にわたる指摘がなされている。以下はその内の第三番目である。
 

『観経』の一場面で「旃陀羅」への具体的な差別があったとしても、『観経』全体の中で「旃陀羅」への差別がいかに不当であり愚かなことであったかが説かれる限りにおいては差別ではない。問題は『観経』の「是旃陀羅」は差別され貶められたままで一言の救いの言葉も、差別を諫める言葉もないということである。そして、差別は主観(例えば「差別する気はなかった」など)を超えた客観的事実の問題であることを強調しておきたい。 (前掲書一二頁)


 

差別語であるか否かは、それが用いられた文脈によるが、『観経』においては「是旃陀羅」の語へのいさめも救いの言葉もないという。このことが、問題を考える一つの視点となろう。
 

 

③鶴見晃氏「『観経』における「是旃陀羅」の位置」

『教化研究』一六四号(教学研究所編、二〇一九年)は、「『観無量寿経』「是旃陀羅」問題」という特集テーマのもと、編集している。それは「私たち自身の差別性を問い、解放に向けた歩みを生み出す教学の構築」(前掲書九頁)に向けた取り組みの一環であり、「部落差別問題等に関する教学委員会」における問題提起や発表等を収めている。
 

同誌に収載されている教学研究所所員(当時、現・同朋大学教授)鶴見晃氏の論文では、まず、親鸞聖人の『観経』観を確認する。『観経』は「方便」の経典であり、諸行により往生しようとする衆生を念仏の信へと回入させる方便誘引のはたらきを表すという。そして王舎城の出来事と序分における釈尊の説法は、その回入の縁となるものと記す(前掲書一一一頁)。鶴見氏はその「方便」という視座から序分・正宗分の展開を考察している。そして、次の善導大師の註釈に着目する。
 

「是旃陀羅」と言うはすなわちこれ四姓の下流なり。これ乃ち性匈悪を懐きて仁義にならわず、人皮を著たりといえども行、禽獣に同じ。 (『真宗聖教全書』一、四八〇頁)


 

ここに「禽獣」という言葉が記されている。鶴見氏はこの「禽獣」と、『観経疏』散善義「上品上生釈」に記される、次の文における「畜生」とを対比する。
 

あるいは人ありて三種分なき者、名づけて人の皮を著たる畜生となす、人と名づけざるなり。(同五四三頁)


 

ここに「三種分」と記されるのは、孝養父母(聖典九四頁)等の「三福」、すなわち倫理の行である。上品上生から下品下生の段では仏陀から三心を具すること、三福を修することが求められる。その中で見出されるのは、自身が三福を行じえない下品下生の凡夫、「畜生」であるという事実である。
 

ここに『観経』は、「是旃陀羅」という、社会維持のための「仁義」・倫理に必然する排除という問題に対して、根源的な問いかけをしているのである。(中略)「旃陀羅」を排除する「聰明多智」の虚偽性、領域・境界の虚構性への信知に浮かび上がる人間の存在性、すなわち恩に背く存在、「畜生」としての人間存在が、散善の明示する人間像であり、それが凡夫である。 (『教化研究』第一六四号、一二二頁)


 

さらに、「旃陀羅」への差別は、下品下生の自己に向けられた顛倒した憎悪であるという(同一二四頁)。下品下生、「畜生」としての凡夫が、自らの悪から目をそらすために、それを社会的に作られた「旃陀羅」の上に投影する。そして「旃陀羅」を「仁義を閑わない」「禽獣」として位置づけ、排除することで、善人としての位置をたもつのである。『観経』はそのような凡夫・悪人としての在り方を知らしめ、「旃陀羅」を「禽獣」として排除する虚偽を照らし、すべての者が「畜生」、下品下生であるという平等の地平を開くのである。
 

 

④青木玲氏「親鸞教学における「是栴陀羅」」

『教化研究』一六四号には、青木玲氏(九州大谷短期大学准教授)による論文も収載している。
 

青木氏の論文では、まず親鸞聖人が吉水時代に著したとされる『観無量寿経集註』(『集註』)が分析されている。『集註』には主として、『観経』の本文と、それを註釈した善導大師の『観経疏』の文が記されている。青木氏は、『集註』の裏側に抜き書きされた『観経疏』序分義「禁母縁」の言葉が、親鸞聖人の『浄土和讃』「観経意」の第三首から第五首(『真宗聖典』四八五頁)に対応していることを記す。「観経意」で経文を直接和讃にしているのはこの三首のみであり、親鸞聖人が『集註』の中で着目した箇所が、この三首になっているという(前掲書一四二~一四三頁)。
 

そして、「観経意」の第一首が「恩徳広大釈迦如来」によって「安楽世界をえらばし」(『真宗聖典』四八五頁)められることが示される和讃であることに着目し、親鸞聖人がここに『観経』の中心課題を示そうとしていたことを記す。さらに次のように述べている。
 

この第一首目を受けて展開する和讃には、「安楽世界をえらばしむ」の背景が示されている。頻婆娑羅王が命令して仙人を殺害させたこと(第二首目)、阿闍世王が怒って母親の韋提希を殺そうとしたこと(第三首目)、耆婆・月光が「是栴陀羅」という言葉で阿闍世の逆心を諫めたこと(第四首目)、阿闍世が剣をすてて韋提希を深宮に閉じ込めたこと(第五首目)がうたわれている。この事実を一言で言うならば、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒による排除であろう。このような排除の世界の象徴的なこと、換言すれば、排除の世界の根源的な事実、それが「是栴陀羅」という言葉として表されているのではないだろうか。(『教化研究』第一六四号、一四四頁)


 

すなわち、右の四首にうたわれた王舎城の現実は、三毒の煩悩による排除を表し、その根源的事実が「是旃陀羅」の語に表されているという。そして、次のように記している。
 

そのような世界に生きているからこそ、釈尊は韋提希に「安楽世界」という差別・排除のない世界、共に生きる世界を「えらばし」めたのである。(同前)


 

このように、釈尊が韋提希をして、阿弥陀仏の浄土に生まれることをえらばしめた背景に、三毒による排除のあることを述べている。
 

 

⑤江林智靜氏「補論「是旃陀羅」考 上」

次に教区における研究を紹介したい。九州教学研究所の江林氏は『衆會22』(九州教学研究所、二〇一七年)に収められた論文で、「是旃陀羅」の語に対する善導大師の註釈を取り上げ、古代中国社会との関連を分析している。
 
善導大師の註釈には、「性匈悪を懐きて仁義にならわず、人皮を著たりといえども行、禽獣に同じ」と記される。江林氏は、このように仁義を閑わないものが「禽獣」とされる背景に、儒教道徳のあることを確かめる。
 

ここで、注意されなければならないことは、仁・義(礼・智・信)が儒教において万事万象の構成要素であり、インドにいう四姓としての身分制度をささえるイデオロギーとして語られていることだ。(『衆會22』二四四~二四五頁)


 

古代中国社会における統治秩序については、仁義礼智信、孝などの儒教道徳が一定の影響を及ぼしている。親への孝と君主への忠誠が基礎となり、それらの倫理秩序(礼の秩序)に従わない者は「賤民」とされる。そのように、道徳観念に裏付けられ、良賤制などの統治秩序が形成されていた。江林氏は特に孟子の言説に着目している。それは孟子が、忠孝の倫理をこえて博愛主義を説く墨子を「禽獣」と批判する言説である。同時に「仁義を閑わず」という善導大師の言葉の典拠も、その中に見出している(同二四六頁)。
 

そして江林氏は、善導大師がそのような自国のレトリックと「是旃陀羅」の諫言とが相応していることを捉え、「旃陀羅」という存在がインドでどう語られているかを確かめていったと記している(同二四七頁)。
 

 

おわりに

ここまで先学の論考、提言を紹介してきたが、これらから窺える視点を記したい。
 

まず、親鸞聖人の『観経』観を確認したい。親鸞聖人は『教行信証』「化身土巻」に、『仏説無量寿経』(『大経』)は「真実・方便の願」(『真宗聖典』三三八頁)をあらわす経典、『観経』は「方便・真実の教」(同三三九頁)をあらわす経典と記している。それは『観経』を、『大経』の本願成就に基づいて領解し、衆生を真実報土の往生へと入らしめる悲願をあらわす経典としていただくということであろう。
 

次にこのような『観経』観に基づいて、『観経』の文意をたずねたい。『観経』欣浄縁では、韋提希が釈尊に対して次のように述べている。
 

この濁悪処は地獄・餓鬼・畜生盈満して、不善の聚多し。願わくは我、未来に悪声を聞かじ、悪人を見じ。 (同九二~九三頁)


 

ここに、韋提希が地獄・餓鬼・畜生の三悪趣を厭い、浄土を願うことが説かれている。三悪趣は衆生の煩悩によって生み出される境界であるが、その煩悩による排除の根源的事実が、「是旃陀羅」という諫言に表されている。韋提希は、その現実を「濁悪処」と呼び、「楽わず」としているのである。
 

韋提希はその後、釈尊によって諸仏の国土を見せしめられる中で、阿弥陀仏の浄土に往生することを願う。ここに、「浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり」(同一四九頁)という、『観経』の教意のあることを確認しておきたい。
 

次に、差別と倫理秩序との関係を捉える必要があるという点を確認したい。先に見たように先行研究では、善導大師が「旃陀羅」を「仁義を閑わない」「禽獣」とした背景に、儒教倫理を基準とした社会秩序のあることを示していた。差別は社会道徳や宗教的観念などの装いをとって現れることにより決定的となる。自らの悪を「旃陀羅」に転化し、それを仁義を閑わない「禽獣」として排除することで、差別する側が善人としての自負をたもつ。『観経』はそのような私たちが等しく、三福(倫理)を具えない畜生であることを知らせるのである。『観経』の散善(三福)の文に、そのことを学ぶ必要があるのではないか。
 

また、「旃陀羅」の名は「執暴悪人」の訳が付されるように、その名で呼ばれることにより、ある人々がいわれなくして「悪」として分類され、「個の存在」がかき消されていく。そのようにして「旃陀羅」は非倫理的であるという差別的まなざしが固定化され、実体化されていく。そのような差別からの解放をもたらすのが南無阿弥陀仏の名号であるという視点を大事に、私自身の学びを深めていきたい。
 

(教学研究所研究員・中山善雄)

(「教研だより184」『真宗』2021年11月号より)