人間の妄念
(都 真雄 教学研究所助手)
多くの先学から、念仏は個人的な欲望のためにあるのではない、と幾度も教えていただいてきた。そして自らもそう思っていても、時に次のような問いが生ずることがある。
この問いから、さらに思い出されるのは、「罪福心(信)」という言葉である。罪福心とは、自力による罪福を信ずる心であり、善を求め悪を恐れる心でもある。
伝承されてきた仏教の教えの中には、夥しい数の罪福や利益が説かれているので、善や利益を求め、悪をさけるために、念仏を称えてしまうことがある。先ほどの問いが生ずるとき、気づかぬうちに念仏をそのようなものとして捉えているのだろう。
そしてそのような問いが生じる度に思い出されるのは、次の曽我量深師の罪福心についての言葉である。
私は罪福心が「遍計所執の心」であるという言葉を初めて読んだとき、強い衝撃を受けるとともに、改めて気づかされるものがあった。遍計所執性とは、唯識思想において重要な教説である三性説の一つであり、その他に依他起性と円成実性がある。よく知られている蛇縄麻の喩えでいえば、遠くから見ていると蛇(妄想、遍計所執性)だったものが、実は縄(事実、依他起性)であり、またその縄も麻(真実、円成実性)を編んだものに過ぎないということである。それは私たち凡夫が日々、妄想を見ているだけで、真実はおろか、事実すら見えていないということである。
思えば冒頭の問いの裏には、自力による罪福を信ずる心と善を求め悪を恐れる心があり、それは妄念妄想である罪福心である。問いはそこから生じたものなのだろう。
蛇の妄想は、縄であると気づくと消える。けれど罪福心は、煩悩や我執と深く関わるので、生涯、消えることはないだろう。そう思うと暗澹たる気持ちになる。しかしほぼ同時に、それによって自分が信心念仏に依る以外にないことが知らされ、どこかやわらいだ心持ちにもなる。
(『真宗』2023年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
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