人間の妄念
(都 真雄 教学研究所助手)

多くの先学から、念仏は個人的な欲望のためにあるのではない、と幾度も教えていただいてきた。そして自らもそう思っていても、時に次のような問いが生ずることがある。
 

日々何のために念仏を称えるのか。

 

この問いから、さらに思い出されるのは、「罪福心(信)」という言葉である。罪福心とは、自力による罪福を信ずる心であり、善を求め悪を恐れる心でもある。
 
伝承されてきた仏教の教えの中には、おびただしい数の罪福や利益が説かれているので、善や利益を求め、悪をさけるために、念仏を称えてしまうことがある。先ほどの問いが生ずるとき、気づかぬうちに念仏をそのようなものとして捉えているのだろう。
 
そしてそのような問いが生じる度に思い出されるのは、次の曽我量深師の罪福心についての言葉である。
 

仏法の方からみると、それ(罪福を信ずる信心)は人間の顚倒の見である。(中略)だから仏法では結局遍計所執へんげしょしゅうの心で、これは全く仏を拒絶する心である。(『曽我量深選集』第六巻三〇四頁、彌生書房、一九七一年)

 
この罪福心といふものは全く人間の妄念である。人間の妄念を以て然も仏と通じようとする、雑行雑善を以て往生の業として、それを回向し仏と通ぜんとする。(同三〇五頁)

 

私は罪福心が「遍計所執の心」であるという言葉を初めて読んだとき、強い衝撃を受けるとともに、改めて気づかされるものがあった。遍計所執性とは、唯識思想において重要な教説である三性説の一つであり、その他に依他起性えたきしょう円成実性えんじょうじっしょうがある。よく知られている蛇縄麻だじょうまの喩えでいえば、遠くから見ていると蛇(妄想、遍計所執性)だったものが、実は縄(事実、依他起性)であり、またその縄も麻(真実、円成実性)を編んだものに過ぎないということである。それは私たち凡夫が日々、妄想を見ているだけで、真実はおろか、事実すら見えていないということである。
 
思えば冒頭の問いの裏には、自力による罪福を信ずる心と善を求め悪を恐れる心があり、それは妄念妄想である罪福心である。問いはそこから生じたものなのだろう。
 
蛇の妄想は、縄であると気づくと消える。けれど罪福心は、煩悩や我執と深く関わるので、生涯、消えることはないだろう。そう思うと暗澹あんたんたる気持ちになる。しかしほぼ同時に、それによって自分が信心念仏に依る以外にないことが知らされ、どこかやわらいだ心持ちにもなる。
 
(『真宗』2023年10月号掲載 ※役職等は発行時のまま掲載しています)
 

お問い合わせ先

〒600-8164 京都市下京区諏訪町通六条下る上柳町199 真宗大谷派教学研究所 TEL 075-371-8750 FAX 075-371-6171

※『真宗』についてのお問い合わせは東本願寺出版 TEL 075-371-9189) FAX 075-371-9211