所内研究会報告 「『観経』に確かめられた一切の衆生の救済 」
(藤原 智 教学研究所研究員)

教学研究所の聖教研究班では、現在『観無量寿経』(『観経』)の基礎研究に取り組んでいる。そして、親鸞聖人以前に『観経』がいかなる関心のもとに読み解かれてきたのかをたずねようとしている。そのうえで、善導大師が『観経』に「平等の大慈」を見出していくところに、どのような問題意識があったのかを課題としている。そこで、浄土の教えが説かれる機縁となる『観経』序分について、これまで善導研究をすすめてきた柴田泰山氏(大正大学非常勤講師・浄土宗総合研究所研究員)をお招きし、二〇二四年一月三十一日に「『観無量寿経』序分の概要」と題して研究会を開催した。
 
柴田氏は、初めに『観経』序分の全体像を示し、とくに「禁母縁」の内容について、『観経』および善導『観経疏』の現代語訳を踏まえて丁寧に読み解かれた(現代語訳は浄土宗総合研究所年報『教化研究』二〇および三一参照。同研究所ウェブサイトで公開中)。そこで柴田氏が注意されたのが、『無量寿経』では除くとされている五逆と誹謗正法の罪を犯したのは誰か、である。そして、それは阿闍世であり、彼をそそのかした提婆達多だという。そのうえで、『観経』は第一義的には韋提希が救われるべき経典であるが、韋提が仏滅後の衆生の救済を釈尊に問うたのは、阿闍世の救済を問題にしているのであり、『観経』は五逆と誹謗を行った張本人、阿闍世と提婆をも救済対象にしている経典と初めから読むべきではないかと語られた。すなわち、許されざる罪を犯し、人倫の道を踏み外してしまった人をも、あるいは仏道を踏み外してしまった人をも救わんとするコンテキストをもった経典が『観経』だと強調されたのであった。
 
次に、善導が見ていた平等の概念を考えるために、善導の時代背景としての制度に注目された。すなわち、唐代の律令制である。唐という国家の制度は「律」と「令」によって詳細に成文化されており、これは当時の世界情勢から見て極めて稀有なケースであった。
 
制度とは、人為的に策定された〈制度的現実〉であり、われわれの外側にあってわれわれを規定する〈第二の自然〉である。そして、人間の意志と行為が無明的存在ならば、常に政治と現実に翻弄される制度もまた無明的なものである。ここにこそ善導が「五濁」「悪世」と説明した本意がある。この制度的現実そのものを善導は無明的世界、五濁として解釈し、そこから離れることをもって、「願往生」と言っていた、と柴田氏は語られた。
 
そして最後に、「平等」について、『観経疏』の言葉でいえば「五乗斉入」であると押さえつつ、法然上人が「津戸三郎へつかはす御返事」において、「善導和尚此文を受けて、此の平等の慈悲をもては普く一切を摂すと釈したまへり」(『昭和新修法然上人全集』五七二頁)と記したように、どこまでも一切すべての衆生を救うことだけを考えたのが善導であったと確認された。
 
現代において経典を読解していく視点を教えられるとともに、講義の端々に、今後の宗学間対話についてなど様々な提言をされ、新たな研究や交流にもつながる大変有意義な研究会であった

(教学研究所研究員・藤原 智)

([教研だより(215)]『真宗』2024年6月号より)※役職等は発行時のまま掲載しています