大河内了悟という先生は「お念仏とは、自我のはじける音だ」とおっしゃいました。思わず私の口から、お念仏が出る。そのお念仏が出るということは、自我が崩れ去った音だと、そこに初めてもとの阿弥陀のいのちに帰らしめられるということがある。そしてそのときに初めて私たちは人間としての謙虚さというものを、あらためてこの身にいただくのではないでしょうか。私たちは、今日まで科学技術の発達のままに、あたかもなんでもかかわり、なんでもできるものとして、言うならば神のごとくに振る舞ってきたのです。すべての価値を私たちは決めることができるかのごとくに生きてきたのです。そういう私たちがあらためて、いのちの世界そのものの中に、自分というものをいただき、そのいのちそのものの中に、それこそ生かされていくものとして目ざめるとき、はじめて、人間としての謙虚さをあらためて呼び戻されるのではないでしょうか。
人間が今、本当に人間としての謙虚さを取り戻さないならば、言い換えれば、人間が自分のあり方に深い悲しみを感ずるということがないならば、もはや将来というものを持つことはできなくなるのでないかということを強く感じているわけです。言葉としてはいかにも古いように思いますけれども、この「安心決定鈔』のお言葉ですね。
しらざるときのいのちも、阿弥陀の御いのちなりけれども、いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力になりて、「わがいのち」とおもいたらんおり、善知識「もとの阿弥陀のいのちへ帰せよ」とおしうるをききて、帰命無量寿覚しつれば、「わがいのちすなわち無量寿なり」と信ずるなり。
(『真宗聖典』959頁)
まったく私たちがその意識を持たないとき、生まれ出たときからすでに私たちは阿弥陀の御いのちをたまわってきているんだと。それを「いとけなきときはしらず、すこしこざかしく自力にな」るとき、わがいのちと思いはじめる。その私たちに「もとの阿弥陀のいのちに帰れ」と、呼びかけ呼びかけされているのが、念仏の世界なのだということを教えてくださっておりますこのお言葉を、あらためて思い返されることです。
出典:『人と生まれて』(東本願寺出版部)
『真宗の生活 2006年①』 「お念仏とは、自我のはじける音」
宮城顗(九州大谷短期大学名誉教授)
※役職等は『真宗の生活』掲載時のまま記載しています。