人間は 我を知らず 我ほど知り難いものはないのである
法語の出典:高光大船
本文著者:藤原千佳子(金沢教区浄秀寺前坊守)
このお言葉は、高光大船師が一九五一年、七十二歳で還浄された後、五十回忌の機縁に出版された『道ここに在り』(東本願寺出版)の中の「直道抄」(二十頁)に出てまいります。
石川県で「加賀の三羽烏」と言われたお一人の大船師は、法話中に居眠りしているお婆さんを見つけると「そこのバアバ、眠るなら出ていけ!」と一喝されたといいます。暁烏敏師は法話がお上手で眠る人がいなかったこと、また私の祖父である藤原鉄乗は、眠っている人がいても淡々と法話を続け、「仏法は眠っておっても毛穴から入るもんじゃ」と言われたと、三者三様のお人柄を伺ったことがあります。
「人間は我を知らず、我ほど知り難いものはないのである」は一見、他に向けた断定的な表現に感じられますが、師の全体の文章をいただくと、そうではないのです。
「本当に我を張るばかりでまことの自己を知らない者だなあ…」とご自身が仏智に照らされた「懺悔」のお言葉と受け止められます。
それは単なる「自己反省」のせかいではありません。
頭が下がらない自分に届いている大悲の呼びかけに頭が下がられたのではないでしょうか。
以前、私がある山村の報恩講の法座にご縁をいただいた時のことです。その地にはお聖教をよく学んでいる男の人がおられました。親鸞聖人の『教行信証』、蓮如上人の『御文』の言葉、ご和讃…等、「わしは何でも知っているぞ」という、「仏法物知り顔」というような感じのする方でした。その日もその方が参っておられました。ところが、久しぶりにお見受けするお顔がどこか以前とちがうのです。何か変わっている、角のとれた柔らかな表情なのです。法座が終わってから、お会いしました。「お顔が変わられましたね」と思わず言うと、にっこりして「わしはなあ、悲しいことに遇いました。大切な一人娘に先立たれました」と話されました。
「一人娘にようやくご養子を迎えることができ、女の子の孫にも恵まれ、しあわせでした。ところがその孫が二歳の時に娘が白血病で亡くなったのです…。こんな悲しいことがあるでしょうか。わしはお聖教の言葉を何でも知っているつもりでした。でも今まで知って覚えたその言葉が私の救いにならなかったのです。それは大きなショックでした。思い上がっていた自分が知らされ恥ずかしくなりました。それから私はこの悲しみを通して、知っておったはずのその言葉にもう一遍出遇い直しました。このどうにもならないわが身の事実を通していただくと、どの言葉もどの言葉も、〝ああ、親鸞聖人はこの私に、こう呼びかけてくださっている。蓮如上人の御文もこの私のために、今現在説法してくださっている…どのお言葉もこの私一人のため〟と響いてきました。頭が下がりました」と言われたのです。
愛別離苦の悲しみの極みにおいて、この方は仏さまの摂取の大悲に遇われ、お念仏申されていることが、その柔和なお顔から伝わってきました。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2021年版【7月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2021年版)発行時のまま掲載しています。
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