ただ、歌うだけでいい
(谷口 愛沙 教学研究所助手)
小さい頃から歌うことが好きだった。比較的早い時期にカセットプレイヤーを与えてもらったし、食卓のテレビには、よく音楽番組がついていた。お酒が入れば祖母は演歌を歌い、母はディスコ・ミュージックを聞きながら家事をする。洋の東西を問わず、家にはいつも歌が流れていた。
初めて英語歌詞の曲を覚えたのは、歌がとても上手な叔父のおかげだ。叔父の部屋には、カセットテープがたくさんあった。水色一色に統一されたインデックスカードの入ったケースが並ぶ棚には、叔父のこだわりがつまっていた。叔父の部屋は、生活の匂いがしない空間だった。心地いい緊張感の漂うその部屋で、簡単には触れさせてもらえない叔父のカセットテープを聞く「許し」が出た夜は、私はいつも胸を躍らせていた。
最初に覚えた英語の曲は、カーペンターズの「シング(Sing)」。小学校6年のとき、学校の授業でローマ字表記をちょうど学んだばかりで、それまで遠いところにあると思っていた世界が、私にぐっと近づいたことへの喜びがあった。アルファベットで書かれた文字なら何でも読めるような気がして、叔父にねだって選んだのが、この曲だった。もちろん英単語を理解できるはずもなく、歌詞カードは耳で聞いた音をカタカナで書き起こした自作のものだ。ただただ、歌えたことが嬉しかった。いまから思えば、軽快な音に合わせ、声に出して歌うことをとおして、この曲から「ただ、歌うだけでいい(just sing)」というメッセージを受けとっていたのかもしれない。たとえ、初めて出会う言語の、その意味を把握できていなかったとしても。
最近になって思うのは、私にとって歌うことは、私の内面を表現することでもある、ということだ。ものを読んだり、書いたりすることで、それまで意識すらしてこなかったものが表に出てくることがあるように、自分の内にとどまって姿をみせない心のありようが歌をとおして言葉になる。それは、ときに突きつけてくるような激しさを伴って、あるいはやさしい明かりをともすように、そのありようの輪郭をつくる。もはや、それまで知らなかった自分自身が、かたちづくられていく。
こう思うきっかけになったのは、妙好人・浅原才市の詩に出会って、少し時間が経ってからのことだ。
妙好人とは、浄土真宗の篤い信仰を生きた人びとをいう。妙好人と呼ばれる人びとのなかでも、とりわけ才市は、その人物像や信仰のあり方だけでなく、自由な形式で書き綴られた「口あい」という〈信仰〉詩によってもよく知られている。
才市の詩には、メロディ(旋律)やハーモニー(和音)はない。けれど、音楽がリズム(律動)によって成り立つと言われるように、定型をもたないその詩にも、リズムが息づいている。
才市よい うれしいか ありがたいか
ありがたいときや ありがたい
なつともないときや なつともない
才市、なつともないときや どがあすりや
どがあも しようがないよ
なむあみだぶつと
どんぐり へんぐり しているよ
今日も来る日も やーい やーい
才市にとっての詩もまた、内側にとどめておくことのできない、溢れて出た心のありようが綴られたものだったのだろう。そう思うのは、とくに最後の三行が、口に出して読みたくなるほど楽しいものだからだ。
ときどき、「シング」を歌うことがある。時間が経って記憶が薄れてはいるが、初めてこの曲を歌ったときの、世界を身近に感じる嬉しさは、不思議と瑞々しい感覚として残っている。才市の詩が、私にお念仏のなかで生きる世界があることを伝えてくれているように、歌/詩は、いまもこうして私と世界をつなげている。




























