言葉は光となって人々に真実の利益をもたらす
言葉は光となって人々に真実の利益をもたらす
仏は教えを説いて人々を救い
真実の利益を恵まれる (大経)
出典:世に出興したまう所以は、道教を光閲して、群萌を極い恵むに典実の利をもってせんと欲してなり「真宗聖典」8頁

仏が教えを説くのは、苦しみ悩む人々を救いたいとの願いを心としてこの世に出られたからであります。しかし、ほとんどの人間は「別に救いなんかいらない。それより家内安全、無病息災、商売繁盛がかなえられるほうがいい」と考えます。それは、親が子に願う心と、子が親に願う心とにずれがあるように、仏が人間に願う心と、人間が仏に願う心とに根本的なずれがあることを証明します。この「ずれ」を自覚しないままどんなにたくさん仏の教えを聞いても、「それを聞いたらどんな役にたつのか」「どんな得をするのか」という問いの答えばかりを求めようとしますから、「解らない」「難しい」「もっと簡単に」などという注文が多くなります。

それでは、「仏が教えを説いて人々を救う」とはどういう意味でしょうか。

浅田正作(あさだしょうさく)さんの詩集に「救い」と題する次のような詩があります。

難しいことなんか
なんにもなかった
たったひと言の
なんでもない言葉が
この胸におちれば
それでよかったのだ

『続・骨道を行く』(法藏館)

浅田さんも、最初は仏の教えに注文ばかりつけていたのでしょう。しかし、長いあいだ教えを聞いていくうち、ふと気がついた。教えをほんとうに聞くということは、この自分の願いがどんなに身勝手で欲望にまみれた願いだったかということが知らされて、そのことを深く慙愧(ざんぎ)することから出発するのだと。

親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、教えを聞くということについて、「きくというは、本願をききてうたがうこころなきを「(もん)」というなり」(『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』・『真宗聖典』534頁)と言われます。自分の思いを中心に仏の教えを聞いているかぎり、そこにはいつも「疑う心」がついてまわります。「本願をききて」というのは、私たちを思う仏の願心に触れて、自分の思いが破れるということです。それはちょうど、親の心を自分勝手に解釈していた子どもが、何かの縁で親の純粋な心に触れて、ああ私は親の心を疑っていたと気づくことに似ています。

仏の願心に触れると、その言葉は光となって人々に真実の利益をもたらします。真実の利益とは、聞いた言葉が私の養分となって私を成熟させるはたらきとなることです。このことを、浅田さんは「たったひと言の/なんでもない言葉が/この胸におちれば/それでよかったのだ」と言われます。なんでもない一言でも、それが胸におちると、私の人生の歩みを方向転換させる大きなはたらきとなり、生涯を通して仏道を歩む原動力となります。

「仏法を聞くということは、いままで嫌がって足蹴(あしげ)にしていたものをいただくようになることだ」と、私の尊敬する師は言われました。それは、人生上に起こるどんな嫌なことでも、どんな嫌な人でも、文字通り(ひたい)におしあてていただいていくことのできる、明るくて柔らかな生き方だということができるでしょう。

蓑輪秀邦(福井教区仰明寺住職・仁愛大学教授)
『今日のことば 2007年(10月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。

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