「真実」という言葉は、魅力的です。
書物や映画にも、「真実」という言葉が付いた題名が多く見られます。それほど私たちは「真実」という言葉に心を引かれます。
しかし、私たちの考える真実は、本当にいつの時代にも、誰においても変わることのないものなのでしょうか。
もしそうであるならどうして、国と国や、人と人において、お互いの真実が対立したり、衝突したりするのでしょうか。結局のところ、私たちの言っている真実とは、自分の都合なのです。そしてその都合は、状況や立場が変化すれば、その途端に変わってしまうものです。それは、真実と呼ぶことができないものなのではないでしょうか。
親鸞は、如来こそが真実なのであると、述べています。
それは、人間を照らし出す如来のはたらきこそが、どのような時代においても、誰においても、決して変わることがないからです。
親鸞は、そのような如来のはたらきによって、自分の本当の姿に気付かされたのでした。その本当の姿とは、如来が知っているようには何も知らないにもかかわらず、あたかも知っているかのように思い込んで、言い争い、相手を憎み、傷つけ合っている、そのような人間の姿でし私たちは、他の人の悪いところはよく見えるのに、自分の悪いところはなかなか見えません。
このようにいつも相手の方にばかり向いている眼を、自分自身に向けさせて、自分を本当に知らせてくれるのが如来のはたらきです。
自分自身の姿に気付かせ、共に生きる道を呼びかけ続ける如来のはたらきこそが、決して変わることのない真実なのです。人々がその真実に出遇って生きていくことを願いながら、親鸞は「如来はすなわちこれ真実なり」と、示しているのです。
「大谷大学伝道掲示板きょうのことば3」(大谷大学)から
『真宗の生活 2008年(1月)』
※役職等は『真宗の生活2008年版』掲載時のまま記載しています。