1996(平成8)年 真宗の生活 2月
<私の前世を語られて…>
(問)
かつて、ある人から私の前世を語られ、心を見透かされたように、今現在の私自身のことを言い当てられたことがあります。以前は前世など信じていなかったのですが、こうも言い当てられ、「君のせいじやない。もっと楽に生きればいい」と言われると、その人は誰よりも私のことを理解してくれるように思い、とても気が楽になります。
しかし、このような生き方では、自分がダメになるのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。
(答)
「他人の悪口はウソでも面白いが、自分の悪口はホントウでも腹が立つ」ということばを聞いたことがあります。世の中には、何事につけ他人のことを、さもわかつたように言う人が多いものです。しかも”あなたの前世は”などと、自分にもわからないことを言われると、その人を何か特別なように思ってしまいます。
かつて、私の知人が原因不明の腹痛に困っていたとき、ある人から、「あなたの前世は武士だつたので、敵の腹を槍で突き殺したせいだ」と言われ、それから次々と無責任なことばに振り回され、他人の言いなりになったことがありました。
だいたい、前世や来世などを興味本位に言う人もあるようですが、誰にもわかるものではありません。人間は過去のことを思ったり、未来のことを想像したりして、過去・未来というものが自分と別にあるように思いますが、結局は、今そのイメージを浮かべている現在の自分ただ一人があるだけだと、仏教は教えています。
つまり、私たちには自意識があり、外のものをいろいろと解釈して行動しますが、大事なことは、「何かにつけ他人のことばに動かされるこの私がいる」ということでしょう。ことばで迷い、ことばで眠らされ、また、ことばで救われるのも人間なのですから、私が新しく生かされる「まことのことば」に出遇いたいものです。
あなたは「私自身のことを言い当てられた」ようで、それから気が楽になつたと言われますが、ある意味では、暗示にかかつて眠られたようにも受け取れます。確かに、自意識が強くてがんばり性の疲れが一時的に楽になつたように思いますが、同時に大切な自分自身をも失うことになりかねません。だから、「このような生き方では自分がダメになるのでは」という、あなたの中にある問いが、実は、そのことをいちばんよく知つております。
その間いこそ、私自身を目覚めさせる教えを求めている証拠なのでしよう。どうぞ仏教書や聞法会のご縁に遇うてくださるよう念じます。あなた自身の個性を本当に生かし、輝かせる力となる「ことば」があるはずですから。
よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします
(『歎異抄』真宗聖典640頁)
『真宗の生活 1996年 2月』「私の前世を語られて…」