法話2「阿弥陀如来がご本尊」

日本には七万七千のお寺が存在すると言われます。多種多様の宗派がある中、そのすべてに共通することは、どのお寺も中心にご本尊を据えているということです。ご本尊とは、その場所で最も大切にすべきことを象徴しています。すなわち、そこにどういう「願い」がかけられ、どういう「教え」が大切にされているのかを表しているのです。

さまざまなご本尊を安置する宗派もありますが、浄土真宗では必ず阿弥陀如来一仏のみをご本尊とし、他の仏さまをご本尊とすることはありません。阿弥陀如来は、無量寿仏(かぎりなきいのちの仏)、無量光仏(はかりなき光の仏)、無碍光仏(さまたげられることのない光の仏)と訳されます。ですから阿弥陀如来をご本尊とするということは、限りない「いのち」と、何ものにも遮られない「光」の仏さまを中心にするということです。

光とは何かを照らしてこそ、その光の存在が明らかになるので、はたらき(用き)といい、無量寿とはその本体です。つまり、限りない「いのち」から照らされる「はたらき」かけを大切にしようとする「願い」とその「教え」、すなわち南無阿弥陀仏と念仏申すことが、そこにあらわされているのです。

日頃、私たちは、何を願い、何を教えとして暮らしているのでしょうか。平和や健康、良好な人間関係、経済的豊かさ、社会的成功、さまざまなものを「願い」とし、そして、いかに効率よくその願いを実現することができるのかという「教え」を求め、あるいは大切にして日々を暮らしているのではないでしょうか。厳しく言えば、願いも教えも、この私の欲望実現と共にあるのです。良くも悪くもそこに立って生きる限り、いのちからの呼び掛けなど一見必要なさそうです。

けれども、願った未来のために、どれほど準備をしようとも、万全の努力をしようとも、思うような結果にならず涙する。そのような経験をしたことがない方はおられないのではないでしょうか。多かれ少なかれ、人はどの年代、状況においても、思い破られる「喪失」を繰り返してきているのでしょう。さらに、その「喪失」は、外的状況だけではなく、この身そのものにおいても、老いと病という形で迫ってきます。
私の欲望実現の道は、必ず追い求めるものがある以上、上と下、成功と失敗、〇(マル)と×(バツ)があります。そこにある価値観という「ものさし」に私自身がかなっているうちはいいのです。けれども老いや病は誰も避けることができません。思い描く通りの自分でなくなれば、そのまま私自身の大切さも見失ってしまうのではないでしょうか。だからこそ、日頃の暮らしの中で、くらべる必要のない「いのち」そのものからのはたらきかけ、呼び掛けを聞き続ける必要がある。そう受け止めた先人たちの歴史が、阿弥陀如来をご本尊とする浄土真宗の歴史なのです。

大切なのは、毎日の備えです。備えがあるからこそ憂いがなくなるのではなく、備えることにおいて、憂いも不安も、痛みも、大切な人生の本当に尊い一つ一つとして受け止めていけるのです。

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