東本願寺あるお寺の掲示伝道板に、こういう言葉が書いてありました。「仏壇と塵(ちり)箱(ばこ)を見れば、その家の家風がわかる」。

私はどきっとしましたね。

どきっとしたのは、仏壇がどうなっとるかということでなしに、うちの塵箱はどうなっているだろうかと思って、どきっとしたんですが、きつい言葉だと思いましたね。お仏壇と塵箱さえ見せてもらえば、その家の人がどんなに表をかざっておっても、日ごろどういうご家庭であるかはすぐわかってしまうというんですからね。仏壇と塵箱を一緒にするというのはもったいないじゃないかというかも知れませんけど、言い当てた言葉だと思いました。

なぜかと申しますと、人間にはいろいろ趣味がありまして、変わった趣味の人もありますけど、お勝手の塵箱をのぞくのが趣味だという人はちょっとないんじゃないかと思うんです。

とにかく、いやな物をみんなほうりこんで、早くふたをしていくのが塵箱だと思います。確かにそういう意味じゃ好んで塵箱をのぞく人はないと思います。しかし、もし私の家庭の中で塵箱は汚(きたな)いからいやだということで塵箱を捨ててしまったらどうなりましょうか。それこそ家中が塵箱になっちゃうんじゃないでしょうか。

家中が塵箱になる、その塵を集めて、そして嫌(きら)われながらも家中をきれいにする役割を果たしているのが塵箱なんですね。そういう意味じゃ塵箱一つがあるということは、その家中がきれいであるということなんです。塵箱が汚いからといって、塵箱を捨ててしまったら家中が塵箱になってしまいますね。

そういわれてみますと、塵箱と一緒にしたんじゃちょっともったいないですけれども、お仏壇をいつもいつものぞいておるという趣味は、あまりいい趣味じゃないと私は思うんです。

しかし、もしお仏壇がなくなったならば、私たちの生活は頭を下げる場所をゼロにしてしまうような生活になってしまうんじゃないでしょうか。

塵箱がなくなれば家中が塵箱に変わってしまうように、仏壇がなくなれば、私たちはみんな自我を主張し合うだけが唯一の生き方になってしまう、そういう家庭に変わるんじゃないでしょうか。

そういう意味では「塵箱とお仏壇を見れば、その家の家風がわかる」という一言は、恐ろしいほどはっきりと言い切ってくれた言葉だと思うわけです。

廣瀬 杲

真宗生活入門講座Ⅴ『本尊』(東本願寺出版部)より