『お彼岸 秋』2014年版 表紙 父が還浄し、今年の十二月には、早くも十三回忌を迎える。大変性質の悪い皮膚癌である無色のメラノーマを患い、これから先五年の生存率が二〇パーセント以下との宣告を受けながらも、果敢に治療し、六年を生き抜いた人であった。誰しもが口にするように、生きている間よりも、亡くなってはじめて父の想いにふれることが、私の場合にも多々ある。

一つめは、父の三回忌を勤めた頃であった。年齢的なものなのか、友人たちもまた同じように父親を送るということが年の瀬に続けてあり、東大阪市、堺市へとひと月の間に転々とお通夜に出向いた。出向くことに慣れてきたためか、少し時間に余裕ができたので、駅前の本屋に入り、何気なく一冊の文庫本を手に取って読んでみた。そこには、折も折、次のような一節が記されていた。「かつての親と、今の親との違い。かつての親は、自分の家族の幸せを考える時、自分自身を勘定に入れていなかった」。私はこの一文に出会うと同時に、かつての父の姿が鮮明に思い出されていた。父は、法事などで折詰弁当を頂いて帰ると、それをそのまま家族に渡し、皆が食べ終わり、決まって最後に残った羊羹を「おっ、一番良いのが残った」と言って美味しそうに食べた。その光景が判で押したように繰り返されたものだった。私は家族平等とはいえ、自分を勘定に入れることを忘れはしない。

しかしまた、「かつての親」と表現された、その具体例のような優しい父には、子どもの私には理解に苦しむ一面もあった。当時、父の実母は父の弟の家に身を寄せており、正月や盆には、私を伴い、たくさんのお土産を手にして、よく会いに行った。親子間の、ほんの束の間の暖かいやり取りが交わされるべきその場での父の態度は、普段からは想像も出来ないような、邪険の一語に尽きるものであった。どうしてあのような冷たい態度をとるのか、当時の私には全く頷けなかった。

後年になり、人並みに子育ても一段落しようかという年齢に達した今、あの光景がなるほどと思えてきた。父が養子として入った寺は、移転再建立のために困窮していた。実母に対して何かしてあげたいのは山々であるが、実際には頼られても困る。色々不満もあるだろうが今いる弟の家で我慢してほしい。そのような苦しい立場が、父をして邪険な物言いとなっていたのではないか。

かつての疑問がそのように落ち着く時、私には、『歎異抄』の後序に書き記された宗祖親鸞聖人の最も暖かく深い人間理解、すなわち「そくばくの業をもちける身にてありける」との一言が思い合わされてくる。宗祖が御自身をこう見据えられたように、父もまた、抱えきれないほどの人生の柵の中に生きた人であったのか。私の父への想いは、教言を俟ってはじめて氷解する。

人がこの世を生きて、その人生の意味を本当に知ることは容易ではない。いつも主我的である人間は、目の前の現実に対して、自分にとっての意味のみを求める。そして、それを求め、得られない時、人は自らの人生に唾を吐きかける。本当は、思い通りにならない人生の現実とは、私たちに私たち自身の意味を、すなわち私が一体何者であるかを問うている機会であるのに。

「此岸」に生きる者は皆そうである。唯一、そのような生き方しかできない自分を徹底して教えて頂く時、人生が持つ一段深い意味に対して「なるほど、なるほど」と頷かしめられるのではないか。宗祖が『教行信証』真仏土巻で尋ねられた本当の浄土、真理のはたらきとしての「彼岸」とは、この時「此岸」に、開かれてくる。「親父にはかなわないな」とのつぶやきと共に。

山口知丈(大阪教区昭德寺住職)

『お彼岸 秋』2014年版より