自らの死を予感しながら「死ぬのは何でもないことだ。生きられないのは恐ろしいことだ」と言ったジャン・バルジャンの言葉を読んで、何かを問いかけられた思いがした。
人間であるかぎり、自分の生がやがてくる死をもって終りとなるのだということは考えている。有限の人生であるからこそ何かで充足したい。実りあらせたい。それが人間の走りつづけた歩みであった。
現代は、人間の空しさを払いよけるものは物だ、と勝手にきめて、物さえあれば人間は幸せになれる、と思いこんで生きてきた時代だと思う。このことは何か人間をあられもない方向におしやってきた。
先日も、私の寺の庭にあるサルスベリを見ながら若い者が「このサルスベリは30万位はするだろう」と言うのを聞いて「それは30万じゃない。サルスベリだ。なんで君たちそれを金でみるのか」と言うと、「ご院さん知らんなあ、近ごろ阪神地方からこの木を買いに来て、うちの近くにはサルスベリはなくなりました」どこにあったのかと問うと、墓にあったのを売ったのだ、との話であった。木も、石も、土も、人も1万円札におきかえてでないと、その値打ちが見えなくなった私たちの生き方は、どこかが狂ってしまっている。しかも、こうしたところに立って、私たちは満たされない顔をして生きているということはどうしたことであろう。
生きる、ということは、外の物によっただけでは成り立たないのだということに気づかねばならない。それは、人間の最も内面的なもののみが本当に生きるということを与えてくれるものだからである。それはまた、私にとって対象にならぬもの、私そのものと言ってもよい。私はいまそれを、いのち、とよぶことにしよう。
生きられないのは恐ろしいことだ、と言ったその生は、死をもって終ってしまうような生のことである。私たちは、限りある生を生きている身ではあるけれども、死すらも超えて、今日のここからはじまるほどの、いのちの世界があることを知らなくては、心の底から生きて甲斐あり、と叫ぶことはできないであろう。
そのような世界のあることを教えられたのが仏陀であった。どんなに哀れになろうとも、自分のいのちを軽んじてはならない。俺のいのちという考えをやぶって、いのちの事実は私の思いよりももって深くして広く、すべてのものとともに生かされているほどのものであることに目ざめなくてはならない。
山も川も木も草も、一ついのちにつながっている。こうした世界をたまわってくると、人間の思いには絶望があるが、与えられたいのちは絶望しないということが知らされる。
『今日のことば 1975年(1月)』 「日日に念ずれば いのち新たなり」