ある老人が、若い者との間が面白くなくて養老院に入った。
この人がホームに入ってから間もなく訪ねたら「こんなよいところならもっと早く来たらよかったと思います。まるで極楽だ」と話しておられた。それはよかったね、と話したものの、何か心に残るものを感じながら帰った。
1年もたったころだと思うが、再びこの老人を見舞ったときのことである。「あなたは車で来たか」と言うから、そうだ、というと、私を連れて帰ってくれ、と言われる。なぜだとたずねると、家に帰りたくなった、と言う。かつての極楽が今では極楽でなくなったのである。
彼は、自分を拘束する家から解放されて、一度は幸せだったと思ったのだが、しばらくたってみると、今度はホームの生活が彼を拘束するものとなってしまったのである。
私を苦しめるものが外にあるのだから、その環境から逃げたら楽になると思うのは、この老人だけではない。どこか、大きなまちがいをおかしている。このような状態で生きている相(すがた)を仏教は流転(るてん)だと教えられている。
龍樹菩薩の教の中に、人間は自らがもつ思いにたぶらかされて、往きつもどりつをくりかえし、闇から闇をさまようものであることを随愛の凡夫(ずいあいのぼんぶ)と言われている。
自分一人の幸せしか考えることのできない人間は、自分を超え、人生を超えることはできないことを教えられているようである。
若いときから、貧しさとたたかい、難しい人間関係の中をひたすらに念仏の教を聞きながら八十余年の生涯を終わった老婆の十七年の法事がつとめられたとき、この老婆からいえば長男の嫁にあたるお方からこんな話を聞かされた。
すでに病も重くなってきたある日、「どうぞ私が死んだ後も念仏を大切にしてくれ、念仏は失敗も成功もみんな無駄でないことにしてくださるから」と話してくださった。そのとき、私はこのときをはずさず聞こうと思い、どうも養子は仏縁がなく、なにかにつけては反抗し、暗い生活をする日が多く、家中が悩んでおります、どうしたものでしょうか、と問いました。
すると母は突然ベッドの上に起き上がって、「ああ、それはよい砥石(といし)だ。貴女が磨かされてゆく砥石だ。このことは誰にも言いなさるな、言うと他人(ひと)がその砥石を持って行く。ああ結構な砥石だ。大切にしなはれや」と言われました。私はこの母の言葉が今にしてようやくわかるようになりました、と、いかにも大事な宝でも公開したかのように話してくださった。
霜雪の中をじっと忍んで、ようやく咲いた梅の花にも似て、たくましく生き続けていく不思議ないのちの叫びである。
『今日のことば 1975年(2月)』 「風雪にもたえて いのちに力あり」