MDRI015
仏陀の説法は、私たちの人生に、本当のはじめを与える

生まれたということは、はじまることだと言われる。親鸞聖人の教えの中にこうしたことが大切にのべられている。

私は大正3年に生まれたのだから、そのときから私の人生は始まったことになる。

しかし、考えてみると本当にそこから私の人生がはじまったと言えるのか。もし、そのときから私が私になるためのいとなみが大切に続けられていたのなら60年もたったのだからわれも人も驚くほどの存在となっていてもよいと思う。

先日も、海岸の岩の上に生えていた松をぬいてきて、2年かかって鉢に植えたのを見せてもらったが、おそらく50年近くも生き続けたものと思われる風格をたもっていた。その分厚いうろこ形の皮といい、小さいながらまとまった枝といい、しばらくその前にたたずんで見とれたものだった。彼の今日に至った何十年かを想像してみた。

 

何十年もの昔、一粒の松の実がとんで来て土もないような岩の上に、わずかに身をよせることのできる塵の中で彼は芽を切った。まさに、彼が彼になる第一歩をふみ出したのだ。頭から嵐を受けて根こそぎもっていかれるような逆境の日もあったろう。時には春風駘蕩、凪(なぎ)の日もあったろう。順境には外にのび、逆境には年輪をつくってこの風格をなしえたのだ。しかも、ここまでに生きてきたかげには、だれも知らない不断のいとなみがあった。それは、岩の間をぬうて深く深く大地に依って生きるために根をおろしてきたことである。

 

彼を思い、これを思うとき、私ども人間にはこの松のような美しいいのちの歩みは全くないのだろうか。いや、それがあったのだ。そのことを教えてくださった経典が大無量寿経である。そこには次のようなことが説かれる。

昔一人の国王があった。それは世俗の王であるから富と権力をもって生きがいとしていた人である。

あるとき、この王が世自在王仏(せじざいおうぶつ)という善知識(ぜんちしき)に遇い聞法する身となった。国王は、初めて師を発見したのである。そして仏の説法を聞き、心によろこびをいただき、無上菩提心(求道心)を発(おこ)した。そして、今まで執われていた富と権勢の空しい飾りであることを知り、それらを捨てて永遠の求道僧(ぐどうそう)としての歩みがはじまっていく相(すがた)がのべられている。世俗の王の転身は、ひれ伏して聞くことのできる善知識との出遇いからはじまった。草や木が光と大地を得たほどの広大な縁である。

そこに与えられた聞法は、国王の閉ざし切った心の扉を開いて、いのちの願いに目覚めさせるものであった。それはちょうど、一粒の実が殻を破って芽を切ったのにも似て、本当の意味で彼が彼自らに成ってゆくたくましい自己の発見であった。仏陀の説法は、私たちの人生に、本当のはじめを与えるもののようである。

『今日のことば 1975年(3月)』 「芽ぐむ草木に いのちたくまし」