1994(平成6)年 真宗の生活 1月
<新しい年は「軌道修正」から>
「もういくつ寝るとお正月」といって、子どものころは指折り数えて正月を待った。
新しい服を買ってもらえるのは何年かに一度のことであったが、足袋だけは毎年新しいものがあたった。もらった足袋に足を入れたときの、あの真新しいネルの感触は今でも足裏によく覚えている。
そんなにして迎えた正月が、修正会(しゅしょうえ)とも呼ばれることをしったのは三十歳を過ぎてからのことでした。さらに、その修正会というのは、あの宇宙飛行の際になされる「軌道修正」というときの「修正」と同じ意味であるという受け止め方があるのをしったのはつい二、三年前のことでした。字宙飛行というとき、思い出すのは、月から帰ろうとしてピンポン球大の地球を目にしたとき、果たしてあんなところへ無事に帰着できるのだろうかという激しい不安に襲われた、という飛行士の告白です。そんな不安の中から、奇跡にも近い帰還がなしとげられるためには、その間に絶えざる軌道修正が行われてのことなのです。
このような現代科学の最先端で行われている「軌道修正」にもまさる修正が、実はわれわれがこの世に誕生するに先立って、生命の最も原始の段階で行われているといわれています。精子に出会った卵子は、そのとたんから驚くべき迅速さて、細胞の分裂と結合とをはじめ、その無数の繰り返しの中で、人体という精巧無比な生命体を、わずか二百八十日にして作り上げ、誕生させるという。岡田節人(ときんど)氏によれば、彼らはその過程において、いくたびも迅速かつ絶妙な修正を行うということである。たとえ卵子が運よく精子に出会うことができても、人間としてこの世に誕生できるためには、字宙よりの帰還にもまさる軌道修正が絶えず行われねばならなかったのです。胎児が、しかも発生直後の原始の状態のときから、こんな高度な能力と技術を持ちあわせているということ自体、驚くほかはありません。
ところで、今度は私たちの生のありようについて考えると、それは己の生のありようの過りに気づかされる探い智慧を抜きにしては考えられないでしよう。
大晦日の夜、日本申の寺々で一斉に撞き鳴らされた除夜の鍵は、古来から百八つ撞くものとされています。その数は仏教が説く煩悩の総数です。闇の中から目覚めよ、目覚めよと響きくる梵音を聞き、過ぐる年もまた煩悩に走せ使われた一年であったと気づいた先人たちは、新しい午は軌遭修正から始めたことと思われます。「修正会」ということでしよう。しかし、除夜の鐘にあう中で、煩悩具足の身であることを知らされた者には、修正とぃっても煩悩を断つことではなく、「煩悩具足と信知して、本願力に乗ずる」念仏一道に帰る以外になかったのです。
蓮如上人は「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」と仰せられましたが、念仏申すことを抜きにして私たちに修正会はないのです。
去年今年煩悩無尽慈悲無尽 永久
『真宗の生活 1994年 1月』 「新しい年は「軌道修正」から」「『南御堂』から」