1994真宗の生活

1994(平成6)年 真宗の生活 2月
<一本の浮木>

(問) 人間にとって、倫理道徳が一番大切だと思いますが、宗教も倫理道徳も同じようなものではありませんか。

(答) 倫理道徳は、「人のふみ行う道」といわれます。人間が本能の趣くままに生きる動物と違うのも、道徳を心得ているか否かでありましょう。何が善であるかをよく心得分けて、悪を退けて善を努め励むところに人間の特質があるともいえます。その意味では倫理道徳は人問生活を送る上に無くてはならない大切なことでありましょう。
しかし実際には、そのような理想的な考えどおりに動かないのも人間であります。

道徳と宗教の違いをある宗教学者に尋ねたところ、「道徳も宗教も人問生活のあり方をいうものであるが、道徳の場合は二者択一のできる場合をいう。したがって善悪の区別をして選択できる場合である。例えば、他人の物を盗るのと他人に物を与えるのとでは、他人に与える方が善である。宗教とは、例えば船が沈没して人びとが海に放り出されたとする。そのとき、一本の浮木がある。その木に一人がつかまれば浮いているが、二人がつかまれば沈む。そこへ二人が同時につかまろうとした、そのときどうするかという問題である」と言われました。倫理の立場から言えば、相手を助けることが当然「善」であるから、その木を譲るべきであります。しかし現実にそれができるでしょうか。

「衣食足りて礼節を知る」といわれるように、心身にゆとりのあるときは節度を守れるように思えても、せっぱつまれば何をするやら予想のつかないのがこの私であります。いや衣食足っていても、常に自分可愛いの思いから他人を押しのけて上に立とう、自分さえよければよいという生き方に固まって生きてきた私ではありませんか。「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と親鸞聖人が述懐されるように、縁がくれば何をしでかすかわからない私たちにとって、完全な倫理道徳の実践はついには不可能と言わざるを得ません。

真実の宗教は、そういうほんとうの人問の姿を照らしだし、かえって慚愧の心、いわば恥じらいの心を持つ人間を教えてくださるものと言ってよいでしょう。

倫理道徳は人間の努力を頼むものである以上、必ずその内にみかえりを期待する「功利心」が潜むと共に、「自分は善いことをしている」という自惚れの心が入り込んでいます。真実の教えは、そのようなあり方を常に「雑毒の善」と知らしめてくださり、そこにこそ人間であることを見失わしめない宗教のさらに深い確かな世界が開かれるのです。倫理を完全に守ることのできない自身に深い恥じらいを持つ時にこそ、はからずも人と人との触れ合いが深まるのではないでしょうか。

『真宗の生活 1994年 2月』 「一本の浮木」「大阪教区『教化センター通信』から」