2 絵に対するスタンス
インドという仏教美術の地へ行きたかった大きな理由は、自分の絵に行き詰まりを感じていたからです。若いころは「絵空事は描きたくない」という思いがあったので、実際のこと、現実に則したことしか描きたくなかったのです。植物を描くとすれば、自分で種を植えて、芽が出てきたところ、茎が育ったところ、花が咲いたところ、そして枯れるまでの一生を描いていました。風景にしても、普段自分が通っているところで気にとめていた面白いと思うところを描きたい。そういうことを続けてきますと、とても閉鎖的になり絵が詰まってくるのです。最後の2年ぐらいは自画像ばかりで、今思うととても暗い絵を描いていました。青年期は本当は夢や希望が多いのですが、一方でこれから先が見えず、心に不安を持ち、心が暗くなる時期かも知れません。
それからお金がない。私は若い時から今に至るまで天然顔料にこだわってきました。いい絵具を買うお金がないから、ほとんど天然の安い絵具、墨とか、胡粉という白とか酸化鉄系統の絵具しか買えません。絵具で絵を描くとはどう言うことかと申しますと、皆さんはチューブに入って売っているものが絵具だと思っているでしょうが、もともとは自然の土とか石を砕いて細かく粒子をそろえて、それを何らかの接着剤、膠(にかわ)やアラビアゴム油などを使って描くだけのことなのです。現在世界中の絵具は科学顔料にとってかわりましたが、19世紀半ばまでは世界中全てそのような天然絵具を使っていたのです。僕が今使っているのは、ほとんどがそういった天然顔料です。安い絵具というのは、赤土とか、黄土とかいう酸化鉄が混じった土を原料とした鉄系統の絵具だから値が安いのです。だから、そういった色か白土や貝を焼いて砕いて作った胡粉の白と煤(すす)などの炭素や黒曜石を砕いてつくった黒ぐらいしか使えなかったので、そのような色だけで描いていました。またそれが当時の私の心情に合っていました。
絵具というのは色鮮やかなものが高価なのです。絵具に使っている石というのは、少々色がついていても細かく砕きますと白っぽくなるのです。孔雀石という、ループタイなどに使われている縞の入った緑色の石があります。緑色の絵具は、その石を砕いて作るのです。粒子が粗いときは緑色。質の良いところはとてもきれいな色が出ます。これを緑青といいます。粒子を細かく砕いていけばだんだん白っぽくなるのです。これを白緑といいます。日本画の絵具屋さんでは番号が大きいほど細かい。13番とか12番というのは細かいのです。5番とかはとても粗いのです。5番だと砂を並べて描くようなもので、とても扱いにくいのです。群青という青い絵具がありますが、昔はこの絵具を1尺四方、つまり30センチ四方が美しくまんべんなく塗れたら一人前と言われたぐらいに、フラットに塗ることが難しいのです。
僕は自分が絵を描くとき、必ず自分のイメージを膨らますのです。今、描いている絵は何年も前、ときには20年以上前のことを反復しながら描いているのです。例えば何かを見ながら描くということはできます。小さい絵なら。「ああ、きれいな花卉(かき)だな」と思って写生をしてそれをもとにすぐに描くことはあります。でも大きなテーマを描くときというのは、必ず何年か何十年かかけて自分の中で育てるのです。思いが足りないと消えてしまうのです。思いが持続して昇華していかないと、なかなか自分のイメージに近づかないのです。写生は大切です。写生からどう描きたいか何を描きたいかという願いの絵を創っていかなければなりません。
現実に則して描くと生(なま)っぽいのです。きれいなものは確実に自然のものには負けるのです。若いときは何も分かりませんでした。とにかく「うそは嫌だ」と、実際のこと以外は描きたくないということばかりだったのです。生活も苦しかった。だから、余計に現実のことを現実のまま描きたいと思ったのです。それも大事なのですが、本当はあまりいいことではないと、あとになって知ることになりました。現実は辛いし苦しいのです。絵はそのまま描くのではなく夢や希望を与えるものでなければと思うようになりました。