3 親鸞聖人の人生

卒業後しばらくして僕の祖母が亡くなって、それで100万円余り入ってきましたので、これをもってインドに13ヶ月間旅をしました。これが僕とインドとの「きっかけ」なのです。物事というのは、僕は出会いや「きっかけ」をどうとらえてくかしかないと思っているのです。

親鸞聖人がもし上級貴族の子に生まれていたら、果たして出家して比叡山に登られたか、僕はそれは分からないと思います。僕は仏教というのは、必ず自分の身に引き換えて、わが身に置き換えてものを考える宗教だと思っています。そうでないと人の痛みがわからないのです。

今日のお話とは違うかも知れませんが、親鸞聖人も他の祖師と同じく比叡山で修行をされていた。今でいう図書館、司書のような学僧でおられたと思います。そこで経典から学んで自分の思想体系をはっきりされていかれました。そして法然上人のもとに行かれたのです。

その当時の浄土念仏は「六字礼讃」というお勤めがありました。1日に6回、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とくり返し唱え勤行するのです。1日6回ですから、4時間に1回、それを1週間も続けていますと念仏することに酔ってきたり、中には乱れる人も出てきます。

その頃は、天皇が上皇になると必ず熊野詣をしたのです。熊野というのは観音霊場で、西国三十三所霊場の一番最初です。熊野灘というのは補陀落渡海(ふだらくとかい)と申しまして、観音さまの浄土とされていました。平安中期ぐらいから浄土信仰が非常に盛んになります。天皇も藤原家もいつかは年をとり死んでいく、そういう恐れがとても強くなるのです。それで観音浄土のある補陀落渡海、那智山青岸渡寺にお参りに行くのが熊野御幸(ごこう)でした。後鳥羽上皇が熊野御幸に出かけ、留守にしていた間に上皇がかわいがっていた白拍子たちが法然上人のお弟子さんが催す六字礼讃に行って、出家までしてしまった。それに上皇が激怒したことが原因となって「承元の法難」が発生し、法然上人は四国へ、親鸞聖人は最も重く遠い越後へ流罪に遭ってしまったのです。

親鸞聖人は、法然上人のお弟子さんの中でも高弟だったはずです。そうでなければそんな遠いところまで流されるわけがないのです。親鸞聖人はそのときより「非僧非俗」、「僧にあらず俗にあらず」(聖典398頁)とご自分で標榜されました。また結婚もされていました。だから釈尊の仏教でいうところの本当の出家者ではないのです。親鸞聖人は自らを愚禿と称されました。禿とはハゲではなく、みずら、すなわち長髪のことです。流罪の折に還俗させられたことに対する抵抗と確信による言葉だと思います。

ところで、インドでも出家者はお釈迦さまの時代から妻帯を禁じていました。でも、肉食は禁じられていたわけではないのです。出された食べものはありがたくいただくというのがお釈迦さまの考え方でした。生きとし生けるものは全て平等なのです。だから動物であろうが植物であろうが、いのちをいただくわけですから、ありがたくいただくというのがお釈迦さまの時代の出家者生活でした。

さて、親鸞聖人が越後でどのような布教をされたのでしょうか。念仏で救われるということをいきなり話しても通じなかったと思います。僕は一番具体的なことからされたのではないかと思っているのです。それは何かと申せば、当時は文字が読めない、文字が書けない、そういう人が多かったのです。役人に訴状を書くにも文書にできない。たぶん親鸞聖人は代筆業みたいなことや比叡山での厳しい修行で培った医療などをして、越後の人々と接していったのではないでしょうか。やはり、実際的なこと、現実的なことで人びとと接していくと説得力があります。そういうところできっかけをつくりながら、本願念仏の教えを広めていったのではないかと思うのです。