5 インドでの生活

だいぶ話が飛びましたが、最初インドへ行ったころは、自分の絵が行き詰まってしまってどうしていいかわからない。自分自身のことしか考えていませんでした。それが、最後には自画像になりました。しかも、とても人に見せられないような自画像ばかり描いていました。そんなありさまで行き詰まっていたころだったのです。

インドへ行ったのは、いろんな姿や生活の違う人間を見たかったからです。放浪したくて行ったわけではありません。しかしどこにでも人間がいます。インドではどうしてこんなにと思うほど、人、子供がいます。人間を見るつもりが、人の多さと逆に見られることで疲れました。もちろん、それだけが目的ではなくて、僕は画家であり美術家でしたのでインドの美術を見たい、文化を見たいということも目的でしたので、博物館と遺跡、寺院に絞って13ヶ月の間、同じところで1泊以上したことがなく、あちこちを巡って回りました。当時、日本からの外貨の持ち出し制限は1500ドルでした。大学を卒業してから親しくしていただいた長崎法潤先生がインドに留学されたときの持ち出し制限は500ドルだったそうです。当時の持ち出しは厳しかったのですが、何とかして3000ドルぐらい持っていきました。そのような時代でした。

とにかく、遺跡と博物館と寺院、そして伝統的な染織を続けているところを出来る限り巡ったのです。でも、話すことが全然駄目でした。大学のときにデーバナガリというサンスクリットの文字を少し勉強していまして、ヒンディの文字も同じですので、インドの文字を読むのと書くのは何とかできたのですが、会話ができなくて、これは駄目だと思って3ヶ月間、家庭教師を頼んで勉強しました。教える人が上手だったのですね。英語とヒンディの本を毎日読み進めるのですが、1ヶ月で1冊終わるのです。それを3ヶ月繰り返していたのですが、先生は「分かっても分からなくても前へ進め」とおっしゃるのです。

僕たちの感覚だと「分からないと次に進まない」というのがあります。その人は国語(ヒンディ)の小学校の先生をされていたそうですが、一緒に貸家に住んでもらって、朝7時から10時半までという約束で授業料を払っていました。その先生は朝7時前に起きたらちゃんとお茶を沸かして待ってくれているのです。とにかくどんどん進むのです。10時半を過ぎても11時ぐらいまで教えてくださいました。

午後は毎日写生に行っていましたが、まるで大道芸人が来たみたいに人が寄って見物にきますので、その時は描きながら学んだ言葉を使い、夜は復習をするのです。それを3ヶ月続けたらかなり会話ができるようになったのです。若いときだから応用がきいて新しい単語をどんどん覚えていけました。インドで、本当にきちんと勉強したのはその3ヶ月だけでした。

インドへは数えきれないほど行っていますが、嫌なこともあって、博物館や遺跡とかは外国人とインド人とで30倍ぐらい入場料に差をつけています。僕はこんな顔をしていますが、インド人として入場します。言語を自由に話せるということはとても良いことです。嘘をつくのは嫌だけれど、そうやって値段に差をつけられるのが嫌いなのです。20年ぐらい前まではインド人も外国人も同じ料金でしたから。「どこから来たか」とたまに尋ねられたら、インド東部でビルマに近いミゾラムやナーガランドなどから来たと答えます。その地方の人たちはインド人でもモンゴル系の人がたくさんいるのです。最初に教える人がよかったのと、何度もインドに行っているので言葉になまりがないのです。それでどこも不自由なく行けるのです。

これも元をたどれば、祖母が亡くなってたまたまお金をいただいたおかげなのです。僕は全て「たまたま」本当に御縁があって生きてきているのです。その代わり、自分に与えられた御縁はできる限り誠実にやるしかないと思っているのです。このことだけは忘れないようにして生きています。