1994(平成6)年 真宗の生活 7月
<死んだらどうなる>
「このわたしは、死んだら、どうなるんでしょぅか-- 実は、私は自分の書いた脚本の中で、これと同じ台詞を主人公に語らせているんですが、このことは、わたし自身の切実な問いでもあるんです」
先日、初対面のある男牲から、私はこう尋ねられた。彼は現在活躍中のシナりオ作家だった。
私は、それなりのためらいを感じながらも、しかし、やはり思い切つて答えた。
「私というものが死ぬと、この世界の何もかもが、そのまま残っているのに、自分だけが居なくなるんですよ。いままで自分が所有してきたあらゆるものを、まるごと残したまま、その持ち主だけが、どこにも居なくなるんです」
「やつばり、そうでしたか……。でも、それではあまりにも、救いがなさすぎますね」
地獄でもいいから、死んだあとにつづきがあってほしいと、ずっと思っていたのだ、と彼は言った。
“死によって、地上の一切のものを失わねばならない”というむなしさの底には、”自分自身をさえ、永久に失わねばならない”という、厳然たる事実に堪えられない、自我への執念がある。そこでは、自我を失うことこそが地獄であるに違いない。
私は彼に言った。
「わたしたちが死に直面することによって、人生がむなしく色褪せてしまうとしたら、それは、死がむなしいのではなくて、いままでの人生が、むなしい生き方だったからでしょう。死によっても、なお色褪せることのない生き方を、今からでも探し求め、歩み始めねばならないのではないでしょうか」
『真宗の生活 1994年 7月』 「死んだらどうなる」「『同朋』から」