1994(平成6)年 真宗の生活 9月
<秋の彼岸におもう>
彼岸という言葉は春秋二季、何気なしに言いかわされている。「暑さ寒さも彼岸まで」とも言われ、四季の内でも最も過ごしやすい時期である。
しかし、なぜ秋分・春分を彼岸と言ってきたのであろうか。
言うまでもなく、彼岸とは此岸の迷いの世界に対して、悟りの世界、極楽浄土を言ったものである。存覚上人の撰と伝えられる『彼岸記』を蓮如上人も書写しておられるが、その内容はいかがなものかと思われもする。春秋二季の彼岸会には、諸天が夜摩天と兜率天の中問にあ仲陽院に集まって、人問の善悪を記録するから、悪をつつしみ善を行えといましめ、浄土往生をすすめると記されている。さらに蓮如上人は、「彼岸の会といえることは、七日のうち中日は、日輪西方にかたむき、彼の浄土の東門に入りたもう。此のゆえに無為涅槃の極楽を彼の岸とはいえり」と述べておられる。
春秋の彼岸はたしかに「暑からず寒からず、人民の往還たやすく、仏法修行のよき時節なる」といわれるように、過ごしやすい季節である。しかしながら、過ごしやすいことが仏法聴聞のよきうながしとは必ずしもならない。仏法に縁遠い境界として八難が挙げられている。その中に長寿天とホックル州がある。長寿天は文字通り長寿の世界であり、死を思うことのない境界である。ホックル州は暑くもなし、寒くもなし、苦しみもなく、楽しみもない、ぬるま湯につかっているような境界であると教えられる。人間の境界は夏あり冬あり、また生活の上では苦楽交錯しているが故に、それが縁となつて願心が発露するのであろう。しかしながら現代は、とくに日本人の多くは長寿天、ホックル州の住民よろしく栄耀栄華にうつつをぬかして、今を忘れているかに思われる。自身の日常をふりかえり、その思いを強くする。
「我人一同に、往生極楽の本意をとげたまうべきものなり」と呼びかけつづけられた蓮如上人である。自処諸縁を論ぜず、行住坐臥を問わず、今生きてある意味を確かめ続けてゆきたい。木の葉の黄はみはじめる秋の彼岸、とみに諸行無常の声が胸にひびくことである。
『真宗の生活 1994年 9月』 「一本の浮木」「『南御堂』から」