1996(平成8)年 真宗の生活 5月
<帰依仏・帰依法・帰依僧から始まる生活>
親鸞聖人は、八十四歳の最晩年、「往生極楽の大事をいいまどわし」たとして、「かなしきことなり」という言葉ととともに、ご子息の善鸞を、「いまは、おやということあるべからず、ことおもうことおみきりたり」(『御消息拾違』真宗聖典612頁)と義絶しておられます。そして、その一、二年あとに「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(真宗聖典508頁)という和讃ではじまる「愚禿悲歎述懐」と題された十六首の和讃を作っておちれます。
真実に目覚めることができたことによつて、真実に背いている私たちの虚偽め姿というものがあきらかになり、だからこそ真実に順って生きよと願われているのが、聖人の悲歎の心というものなのでありますが、それらの和讃の一つに次のような和讃があります。それは、「かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす」(真宗聖典509頁)という和讃です。
それこそ、せっかく仏の教えに縁をもって生きるものになったにもかかわらず、何をしているのかと、聖人から悲しまれている私たちの姿が、「時をえらんだり日をえらんだり、そして、さまざまな神々をあがめながら、占ったり祀ったりはらったりしている」と語られているわけですが、実は、このような言葉で悲しまれている私たちの姿というものは、気づくと誰もみな例外なくそうなっている姿というものであります。なぜなら、私たちはお互いに「私」というものを名告り、その「私」というものを中心に生きています。だから、そこには必ず自分の思いに適うものと自分の思いに適わないものとの二つが存在することになり、私たちの生きることは誰においても「鬼は外、福は内」という言葉がそのことをよく語っていますように、自分の思いに適わないものを排除しながら、ひたすら自分の思いに適うものを追い求めて生きるということになってしまうからであります。
だからまた、私たちがこのように生きるかぎり、最終的に私たちは誰もみな、自分の思いに適わない、老・病・死する自分自身と出会わなければならず、そしてまた、共に生きています多くの人たちとは、自分の思いに適わない悪人として出会うことになり、結局のところ誰もみな、どうしてこんな自分になってしまったのか、誰も私のことをわかってくれないという嘆きのなかで、かけがえのない一生を終わることになってしまいます。
そういう私たちであればこそ、親鸞聖人は「かなしきかなや」と悲歎され、私たちが日ごろ何の疑いもなく、それを前提にして生ぎています私たちの「私」というもののところには、真実がないことをあきらかにされるのです。そして、ひたすら、私たちを生かすいのちが、どんないのちも無条件に生きることのできる、同じ一つのアミダなるいのちであることを教える仏陀の教えに順って生きることを願っておられるのであります。
『真宗の生活 1996年 5月』 「帰依仏・帰依法・帰依僧から始まる生活」