2001真宗の生活

2001(平成13)年 真宗の生活 7月 【本願】

<念仏すべきわが身にうなずく>

「法話を聞いた後に拍手(はくしゅ)をしてはいけないのですか?」。

真宗では、法話が終わると静かに念仏し「恩徳讃(おんどくさん)」を唱和(しょうわ)して終わります。ですが、このように思いがけない疑問を投げかけられ、はっとしたことがありました。

恐らく、質問したその方には、法話に感動して「拍手をしたい」と思ったけれどもやめた、ということがあったのでしょう。そのときは「仏事の場なのですから拍手ではなく手を合わせ念仏するのです」と答えたのですが、どうもすっきりしないものが私自身に残りました。あらためて自分自身を問うてみると、「拍手ではない、念仏なのだ」という根拠(こんきょ)がはっきりしていないということでした。ですからそれを聞いた方も、そういうものなのか、という感じだったと思います。

考えてみると、私たちが教えに出遭(であ)うということは、「ただ念仏せよ」という阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願が建てられているにもかかわらず、念仏できない自分に目覚めることだといえます。念仏できない自分が、本当に念仏すべき身として願われている、そのうなずきこそ、私たちが拍手ではなく念仏をする理由でしょう。

「拍手」が()い悪いという問題ではないのでしょう。問題なのは、「私は念仏をする」という、本願建立(こんりゅう)の因を自分自身に見いだすことができるかどうかということです。つまり「ただ念仏せよ」という教えの前に立った私が、まず明らかにしなければならないことは「なぜ私は念仏するのか」ということであったのです。

先の問いに念仏が建て前となっていた私が問われ、私が本願を問う前に、本願から呼びかけられていた身の事実に気づいていない自身を知らされました。そして今なお、「なぜ私は念仏するのか」と私の歩みを間い、(はげ)ます言葉として(ひび)いています。

『真宗の生活 2001年 7月』【本願】「念仏すべきわが身にうなずく」