2001真宗の生活

2001(平成13)年 真宗の生活 8月 【おぼん】

<自分の居場所>

具会一処(ぐえいっしょ)(とも)に一処に会す)」(『阿弥陀経(あみだきょう)』)と書かれたお墓を見かけます。「念仏者はみな一つの場所でであう」ということです。一つの場所とは、もちろん「お浄土」のことです。

わたしが子どものころは、おぼんにはお墓に集まって(そな)えられたものをいただいたり、お墓の周りを()け回って遊んだりしていました。さまざまな年齢の子どもたちが、わざわざ呼びかけなくても何となく集まっていました。寺の周りでかくれんぼや(かん)けりをして遊ぶこともよくありました。最近は、そんなすがたを見かけることはまずありません。以前はそんな居場所が用意されていたように思います。

最近、研修会などに参加して感じるのは、今の青年たちのコミュニケーションのとり方のうまさです。知らない人ともすぐ仲良くなれるし、おもしろいし、積極的です。自分と比べて感心するばかりです。そのこと自体は悪いことだとは思いませんが、少しだけ気になることがあります。まじめさとか感情などが表に出るということは、逆に少なくなっているような感じがするのです。だからそのおもしろさにもコミュニケーションのうまさにも、ある(しゅ)、人に対する拒絶(きょぜつ)が感じられるのです。器用(きよう)さの奥に、おびえや余裕のなさがあるように思います。そこを逸脱(いつだつ)すれば、すぐに居場所がなくなってしまう、しかし(きず)つくから自分のなかに入って来てほしくはない-そんな板ばさみの中からもれる「うめき」のようなものが聞こえてきます…、考えすぎでしょうか。

おぼんにはお墓参りをします。手を合わせ、過去を思い、未来を思う、その心の底にどんな自分がひそんでいますか。居場所を(さが)して「たじろぎ、おびえている自分のすがた、それにであうことがなければ、人とであうこともないのではありませんか。

『真宗の生活 2001年 8月』【おぼん】「自分の居場所」