平川 宗信 氏
平川 宗信 氏

改憲すれば別の国家に

このところ、改憲の動きが活発化しています。自由民主党は、一昨年4月に「日本国憲法改正草案」(以下、「自民党改憲案」または「改憲案」)を決定し、第二次安倍政権発足後、その実現に向けた動きを加速しています。最近は、特定秘密保護法の制定、政府の憲法解釈変更による集団的自衛権の承認など、法律の制定や憲法解釈の変更によって改憲案の内容を既成事実化する動きも顕著です。

憲法は、国家のあり方を決めるものです。自民党改憲案が成立すれば、日本は別の国家になります。私たちは、真宗念仏者として、改憲問題に真剣に取り組む必要があると思います。

しかし、このように言うと、「改憲問題は政治問題であって真宗とは関係ない」、「真宗は自己を問うものであって、政治や社会の問題は関係ない」という声も聞こえてきます。しかし、そうでしょうか?

世を自己の問題として

私は、政治問題・社会問題は、真宗の課題だと思います。私の真宗の師である和田稠先生は、「身と世」ということを言われました。私たちは、「身」(肉体)を持った存在であり、身は「世」(社会)の中に存在している。身は世によって作られ、身が世を支えている。身と世は一体であり、身を問うことは世を問うことであり、世を問うことで身のあり方が問われる。そう言われました。

身と世が、共に問われるのです。自己を問うことなしに社会だけを問題にするのは、真宗ではないでしょう。しかし、社会から切り離して抽象化された「自己」だけを問うのも、真宗ではないと思います。憲法・国家の問題を、そこに生きる自己の問題として、本願に立って取り組んでいく。それが、真宗門徒ではないでしょうか。

生きる根拠とすくいが

念仏者が社会問題・政治問題を問い、取り組んでいく根拠は、還相回向にあると思います。

真宗の根本は、往相回向・還相回向の「二種回向」です。念仏申す身となって浄土に往生せよとの如来からの呼びかけが往相回向、浄土往生した者として本願に生きよとの如来からの呼びかけが還相回向です。両者は、如来の回向の両面として、一つのはずです。本願に生きることが浄土往生することであって、本願に生きること以外に浄土往生はないはずです。現実世界で本願を我が願いとして生きる、本願に願われた世界を求めて身を尽くす。改憲問題で言えば、本願に願われた世界を目指した憲法・国家を求めてはたらく。それが、念仏者ではないでしょうか。そこに、念仏者の生きる根拠があり、すくいがあると思うのです。

終わりない歩みを続け

とはいえ、いかに努力しても、現実世界は浄土にはなりませんし、憲法も本願と一つにはなりません。私たちも依然として凡夫であり、その努力も自分の「おもい」に立った自力の行いにすぎません。

しかし、このように気付かせるのは、浄土のはたらきです。気付いたときには、すでに自分の上に浄土の力がはたらいています。それによって、私たちの自力の行いが、浄土のはたらきに転換していきます。現実世界は真実にはなりませんが、念仏して本願に聞きながら身を尽くしていくことで、真実に出遇っていく。憲法・国家のあり方を本願に問い、本願に願われた世界を目指す憲法・国家を求めてはたらく。そこに立ち現われてくる憲法・国家が、真実につながるのだと思います。

このような努力には、終わりがありません。そして、私たちは、時に誤りを犯します。しかし、「それで良い。念仏して本願に聞きながら歩め」と呼びかけておられるのが、阿弥陀如来でありましょう。それで、私たちは終わりのない歩みを続けていくことができます。それが、念仏者の大いなるよろこびであり、すくいであると思うのです。

では、日本国憲法と自民党改憲案は、それぞれどのような国家を目指しているのでしょうか。どちらが、本願に願われた世界を求める国家を目指した憲法なのでしょうか。次回は、両者の前文と第九条を比較して、本願に立つ真宗門徒が選ぶべき憲法を見定めたいと思います。

真宗大谷派 難波別院発行『南御堂 2014年8月号』から転載