【組内寺院が互いに支え合う「白骨納め」】
大谷講は、山形教区内の各組で、1ヵ年の間に亡くなられた組内寺院の所属門徒の追弔会を厳修し、年度ごとの宿寺(会処寺院)が取りまとめて京都の大谷祖廟に納骨(分骨)するという行事で、通称「白骨納め」と言われている。起源としては、第4組が明治時代に取り組みを始めたことに遡ると言われ、第6組では1913年(大正2)年から100年以上に亘って続けられてきた伝統がある。
当該組から京都までは、新幹線や飛行機が運行されている現代でも約6~7時間を要する程の距離があり、かつては汽車の乗車時間だけで18時間を要したとも言われる。その当時を知る方々は、汽車の乗車券や宿泊にも多くの費用が必要であったし、まさに「身命をかえりみず」に覚悟をもって、一生に一度のことと思って上山したものだったという。そして、それだけの時間や費用、体力的負担を負うことが必要であるからこそ、組内で費用を負担し合い、毎年組内の代表者が上山して納骨するという取り組みが始まったという。
【先達の思いを受けた取り組み】
現在では、宿寺を受け持った寺院は、当該寺院の所属門徒を対象として御正忌報恩講への奉仕上山研修を企画し、その日程の最終日に団体参拝に参加されたご門徒ともに大谷祖廟へ納骨する日程を組むことが多いようだ。この上山は、各寺院にとっては数年に一度の限られた機会であるが、自らの身近な方が亡くなられたことが縁となって、報恩講へ参拝する貴重な機会ともなることから、多くのご門徒も喜ばれている。
組内の住職は皆、
「今でも上山することは容易なことではないが、18時間もの時間を要した時代から、自分は上山することはできなくても京都の聖人へ思いを馳せるご門徒が大勢おられた。今のご門徒は、その先達の思いを携えて生きておられる。だからこそ、そういった繋がりを生きているご門徒の思いに応えたい。それが100年に亘って、この取り組み続けてきた原動力なのだと思う」
と声を揃えていた。
【宿寺の持ち回りを復活させた同朋の会】
大谷講の運営は、宿寺(会処寺院)となった寺院に所属するご門徒がスタッフとなって、受付から食事の手配、駐車場整理や記録などに至るまでの業務を一手に担っており、まさに宿寺のご門徒によって運営されていると言っても過言ではない。2014年度の宿寺は、代務者が擁立されている寺院であるが、現在の代務者が務められるまでの58年間に亘って宿寺を担当することが難しかったようだ。
現在の代務者が就任された時、まずはご門徒の方々が寺院に親しんでいただきながら聞法する場を開きたいと思い立ち、寺院の同朋の会を開くことになったという。最初は、寺院の役員の方々などを中心としたメンバー構成であったが、徐々に役員以外のご門徒も参加されるようになり、同朋の会結成からわずか2年で宿寺の持ち回りを受けようという話に展開していったそうだ。
当該組は、50年以上続く同朋の会を有する寺院も多く、ご門徒にとっても同朋の会へ参加することが至って自然なこととして根付いている風土もある。そして、輪読や懇談などを中心とした学習を無理のない形で続けているからこそ、永らく大谷講の取り組みを続けてこられたのではとも言われる。恐らく、そういった組内の風土もまた、当該寺院の同朋の会を盛り上げていくことに寄与した可能性はあるだろう。
【住職と門徒の関係を繋ぐ聞法の場】
具体的な日程は、まず勤行と宿寺住職もしくは代務者の挨拶、続いてご法話があり、最後に追弔会が厳修される流れで構成されている。
特にご法話については、組内全寺院のご住職が一席ずつ担当される。多くの場合で、組などの大きな規模で追弔会を勤めるときには、講師をお迎えしてご法話をいただくことが一般的となってきたようにも思われる。
当該組では、ご門徒と身近にお付き合いをされている住職自らが、大切な方が亡くなられていったことをご縁として頂戴していく視座を話して寄り添っていこうという姿勢から、現在の形が伝承されてきたとも言われる。
ご門徒に聞いていただく場が開かれていることによって住職が育てられ、その住職のご法話を聞いたご門徒が住職を慕う、そういった「連続無遇」の関係が、大谷講の取り組みの中で自然に形成されてきたのだろう。
【時代に即した形で維持していく視点】
第6組における大谷講の歴史を遡ると、かつてはお斎を振る舞っていた時期もあり、太平洋戦争直後の1945(昭和20)年8月30日に勤修された大谷講の記録には、戦争終結直後にも関わらず、稀にみる多くの方が参拝されたとの記載が残っていた。
また、かつては、勤修期日も固定されていた時期もあり、宿寺の当番についても特別な事情がある場合を除いて、厳格に守られてきた。
しかし、時代の変化に伴い、組内寺院の多くが兼職するようになり、期日を固定することやお斎を振る舞う準備などが大きな負担となることもあり、現在では、9月の第1土曜日に勤めることを定め、午前中で全ての日程が終了する形に変化している。
こういった勤修形態の変化は、単に簡素化することを目的としたものではなく、大谷講の取り組みを維持するために、先達が工夫をして時代に即した形式に変化してきたものだと受けとめられている。だからこそ、闇雲に形式を変化させるのではなく、組内寺院にご法話をいただき、住職全員で追弔会を勤修する形を維持しつつ、ご門徒の要請に応答するという願いを維持してきたのだろう。
先達のご苦労を受けとめながら、維持継続すべきものを守り、その守るべき目的を見失わないために必要な変革を講じていく。100年に亘る歴史と今は亡き人々への敬慕の思いが、見失ってはならない大谷講の願いを広く浸透させ、そこに関わる全ての人々を育んできたのかもしれない。