仏の光にあうと
煩悩のさわりをはなれ
身も心も和らぐ
(出典:この光に遇えば三垢消滅身意柔軟にて(以下略) 大経『真宗聖典』30頁 )
私が学生だった頃、九十歳を過ぎた祖母が認知症になった。最後には、家族・親族も見分けがつかないようになった。それでもいつもの「ナンマンダブ」「ありがとう」は変わらなかった。ただ少し違ったのは「お里へ帰りたい」という意味の言葉を話すようになったことだ。祖母に里を尋ねると、遠く離れた実家か、今住んでいる寺を答える。それで祖母を車に乗せて、兄と近所を走ったことがあった。また寺へ戻ると、祖母の顔は、うれしそうというか、本当に和らいでいた。
老いを生きるということは、一つ一つを断念していくことであると、聴いたことがある。しかし、あれもこれもできなくなって、その中から本当に求めなければならない事柄をはっきりさせていく。あるいはさせられる。それが老いの功徳であると。もしかすれば、それは故郷に帰りたい、会いたいという要求に、素直になれることなのかもしれない。
故郷とは、単なる誕生、懐古の地だけではないと思う。私の存在をまるごと受けとめる人。善悪、優劣、貴賤、上下のものさしで、好嫌、見捨てることのない母なる自然、空間。人は無意識的に、その居場所に安心を求め、帰郷、再会を願うのかもしれない。
真実信心をうれば実報士にうまるとおしえたまえるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。
(『唯信鈔文意』・『真宗聖典』552頁)
永劫の昔から、いのちはどこから生まれ、どこへ帰っていくのか。過去・現在・未来にわたって先祖も子孫も、否、生き物すべてが抱える不可避的課題とその応答。それが阿弥陀の浄土であった。
しかし現在では、浄土について多くを語らなくなった。そのかわり、とりあえず、今の私の欲望を満足させる生活と、その前提となる身心の備えについては話に花が咲く。元気で楽しく、どれだけこの世にとどまれるのか。いわば現世内のひきこもり論である。生育環境によって浅深の問題を抱えるが、この現世内にひきこもることでしか、いのちを実感できないのだ。
宗祖は端的に、「実報士にうまるとおしえたまえる」とおっしゃる。そう、浄土は、教えていただく世界なのである。そして、教えられた心こそ真実信心なのだ。教えなしに私が感覚できる世界は、所詮、あの世レベルの話か、欲望一杯に生きた人間が、死んだとたんに往く「天国」かになろう。したがって、この不確かな私の心で想う、流転の三世の世界から解放する教えとの出遇いを、浄土から願われているのだ。その阿弥陀の願いが届いた、現世の私の心と利益がこの法語である。
この光に遇う者は、三垢消滅し、身意柔軟なり。
(『教行信証』「真仏土巻」引用・『真宗聖典』300頁)
今年、一月に八十四歳で亡くなられたIさん。若い頃は、毎朝五時の勤行後に、神社を五つ参拝していた方であった。しかし、六十歳を越えて、真剣に聴聞するようになって「真実と自我の信仰は違う」と、商売繁盛、無病息災等の日参を廃てられた。「何事もおまかせ」「お与えさま一杯」と、私を育ててくださった。最後の入院の時、家族の人に「これが最後の修行だわゃ。これを乗り越えんと、俺は帰れんでなぁ」と語られた。
今、お浄土から「我今帰するところなく、孤独にして同伴なし」(『往生要集』)という、この世の私の闇を照らし案じくださっている。
『今日のことば 2007年(1月)』 「仏の光にあうと 煩悩のさわりをはなれ 身も心も和らぐ」
池田真(三重教区西恩寺衆徒。同朋大学・飯田女子短期大学非常勤講師)
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。