今年も8月3日に、蓮如上人北國御退去記念法要が、加賀市橋立港にある天崎記念碑前で勤修されました。
この地は、1475(文明7)年に蓮如上人が吉崎から退去される時に、最後に立たれた地として大切にされ、1951(昭和26)年より毎年8月3日に法要が勤修されています。
お寺の役員と地区の御門徒の方々で運営され、本山世話方、組(くみ)内の世話方、門徒会正副会長、本山世話方理事、その他有志の方々で法要が伝承されています。今年、「橋立町を美しくする会」の方々や、妙德寺役員の皆さんにより、記念碑の周辺が綺麗に整備されました。
北陸の地で念仏をひろめられた蓮如上人であるが、5年間の教化を終えてこの地を去る時、どのような思いだったのか。そのお気持ちに思いを馳せる法要であります。夏の厳しい日差しが照りつけるなか、今年は49名のお参りがありました。
その後、橋立港近くの妙德寺で、長澤秀豊大聖寺教務所長の法話がありました。
また、同じ場所に、蓮如上人北國御退去旧地記念碑建立の趣意が書かれた石碑があり、そこには、
「文明三年(一四七一年)七月五十七才北国の教化を志ざし福井県の吉崎にお寺を建て、二十三年のうちに越前の国守の帰依を初め加賀能登はもちろん、奥州の遠方にまでご教化がのびて、真宗中興の偉業を成しとげられた。文明七年七月国守朝倉敏景公の勅請によって、前年焼失した御坊の本建築用材募集のため、家老下間安芸の法眼蓮崇を越前大野に使わしたが、城主朝倉恒景と争いを生じ、真宗の繁栄を憎んでいた平泉寺の宗徒らが合流し吉崎の御坊を急襲してきた。上人は、同年八月二十二日夜ひそかに瀬越の亭の小舟で塩屋の浦から橋立の芳成坊の道場に避難された。その後、小塩の信者小鍛冶屋五郎衛門の舟で、同氏が船頭で橋立の矢師九郎三郎らが乗り組み、慶聞坊など二十三の弟子を伴い、北陸五ヶ年の教化に名残を惜しまれこの小塩の浦から若狭の小浜へ行かれた。ときに上人五十七才。今を去る四百八十年の昔であった。」
と書かれています。