彼岸
お彼岸は、日中の長かった日から、夜の長い日へとうつる、いわば気候の峠です。この日を境として、草も木も、茂をのぼりつめる夏から、枯れて散ってゆく秋へと向かうのです。
千葉敦子さんは、ガンで声を失った時、「声を失うということは一つの死を死ぬことなのだと思う。こうして一つずつ死を死んで、死の積み重ねが最後の死へ私たちを導いていくのだと思う」と言っています。一葉ずつ散っていく木々の葉は、私たちに“いかに生きるか”を追い求める生から、“いかに死んでいくか”という生への転換をうながしているようです。
この未知の大きな坂にさしかかった私に今も思われてくるのは、私に先んじてこの坂にさしかかり、これを越えていった父や母や祖母や先生や、多くの知人たちのことです。
お盆はあの世へ先立っていった人たちを此の世へ迎える日だともいわれています。それに対してお彼岸は、亡くなった人を訪ねる日のようです。
お彼岸には、あちこちのお寺で彼岸会や追弔会、永代経がつとめられますが、亡くなった人を“弔う”というのは、亡くなった人を“訪う”ことです。また“訪う”という字は“訪ねる”という字で、この世を越えて彼岸の世界に帰っていかれた先人を“訪ね”、そのこころを“尋ねる”ことのようです。
『同朋新聞』(東本願寺出版)から・林暁宇
『真宗の生活 2007年(9月)』
※『真宗の生活2007年版』掲載時のまま記載しています。