当たり前と思っていたことが
有難いと気づかされる
(撫尾 巨津子 ・ 作)
2005年5月のよく晴れた日、私は屋久島へ向かう船の上にいました。港が近づいたとアナウンスが入り甲板へ出てみると、濃い 緑に覆われた島が見えます。いつの日か屋久島へ行って屋久杉に遇うことが、私の夢でした。
樹齢数千年といわれる屋久杉、その内側にできる空洞は長い長いいのちの歴史そのものです。耳を澄ませば、木の内側を通り抜ける風にのせて屋久杉がいろんなことを我々に語りかけてくれるでしょう。そう教えてくださったのは大谷専修学院の宗教学の授業を受け持っておられたキリスト教の神父さま、イタリア人の先生でした。今思えば先生は、私たちにさまざまなものから宗教的な声を聞きとる感性を磨いてほしいと願っておられたのでしょう。
このことがずっと胸の中にあったので、「いのちの渦 つながるいのち~生きる力の回復」というテーマのもと、屋久島の地でウミガメの産卵や屋久杉との出遇いをとおして自分自身の生き方を確かめ、それをお互いに共有することを願って全国青年研修会が開催されると知ったとき、またとない機会に恵まれたことをとても嬉しく思いました。
屋久島に行って感じたことは、島全体がひとつのいのちとして存在していて、この島では普段なかなか見えないいのちのつながりを見せてもらえるということです。
屋久島の山は花崗岩でできているのですが、雨がたくさん降るので岩に苔が生え、その養分で木が育ちます。ですからどの木を見ても岩にしがみつくようにしているのです。
また、木の切り株から新しい杉が育ったり、台風で折れてしまった杉の木に苔が生え、そこから何緒猿もの木が伸びている姿を見て、次の世代に自らのいのちをあけ渡し育んでいるように思えて、屋久杉の懐の深さを感じました。いただいたいのちをひたむきに生きること、いのちはたくさんのいのちのつながりの中にあることを屋久杉から教わりました。
屋久杉との出遇いを終えた帰り道、歩き疲れた足を川で冷やしながら屋久杉を育てる島の自然の豊かさに思いを馳せていると、足の裏に感じる岩肌と勢いよく流れる水の感触に幼い日の頃のことを思い出しました。父と母に連れられ山へ行ったり海へ行ったり、あの頃もこうして川へ入ったことを肌で覚えていたのです。そうしておぼろげな記憶を辿るうちに愛されていたんだという実感が体の奥から湧いてきて、静かで満ち足りた気分に包まれました。それと同時に、してもらったことはすっかり忘れてしまい、ないものねだりで不平不満ばかり言っていたことに気づかされ、本当に申し訳なく思いました。
富山空港へ降り立ってから家へ帰るまでの道では、水の滴るような木々の美しさに目を見張るばかりでした。ここにもまた、当たり前になって見過ごしていた豊かな自然がありました。山頂に雪をたたえた立山連峰、どこまでも続く緑の稲穂、美しい川と海、私はこの豊かな自然に育まれて生かされてきたのでした。この地で父と母にいのちをいただいて、たくさんのいのちのつながりの中で生かされている私でした。
立島直子(富山教区称名寺衆徒)
『今日のことば 2006年(10月)』
※役職等は『今日のことば』掲載時のまま記載しています。