目次
「仏教福祉との出遇い」
吉元 信行 (大谷大学名誉教授)
一 非行少年や犯罪前歴者たちとの出遇い
私は大谷大学で、原始仏教という釈尊在世当時の仏教を中心に研究をしてまいりました。私は大谷大学入学の当初から、どうして仏教教団は社会福祉についてあまり熱心でないのかなと不思議に思っていました。そう思いながら大学を卒業いたしまして、大学院に行くことになったのですが、学資がない。自分で働きながら行かなければと思って探したところ、福祉に係わるとてもいい仕事が見つかりました。
更生保護会という民間の施設で、非行少年や犯罪前歴者、刑務所帰りの人たちなどを収容して社会に立ち直らせていくという仕事の補導員をすることになりました。それは、なかなか大変な仕事でした。50人ほどの対象者が収容された施設でしたが、殺人犯で仮釈放になった人や、やくざ上がりの人、前科十何犯という累犯者、そして、非行少年もいました。少年たちは、家があってもその家が引き取りを拒否する。だから、そういう施設に収容するわけで、したたかな少年ばかりでした。1人ひとりとの応対は、大変でした。職員と言えば、警察官や刑務官、保護観察官や少年鑑別所などそういう犯罪関係に造詣のある方が定年後着任された、という人たちがほとんどで、私だけが、この分野では素人で、見よう見まねで補導の仕事をしていたのです。そのような施設で、私は、なんとか仕事をこなしていきました。しかし、しばらく仕事をしているうちに、ベテラン職員よりは、どちらかといえば、スムーズに対象者と対応し、関係を保てるようになり、不思議だなと思い始めました。
二 更生保護と仏教
この分野は、社会福祉のなかでも司法福祉という分野です。社会福祉と言えば、貧困な方への援助、「身体障害者」、高齢者への援助というのが一般的でしょうが、社会福祉のなかに谷間と思えることが、1つあります。それは非行少年や犯罪前歴者への援助です。そのような,社会の人から冷たくされるような人にこそ、福祉が必要なのではないか、そのことを目指すのが仏教ではないかと、こう思って仕事をしていたわけです。そのなかで、例えば司法福祉は、司法機関(裁判所)を実施主体とするソーシャルサービスをいいますが、その対象が司法過程に係属する要援護者であり、ソーシャルワークの一分野というよりも、独自の領域として発展してきたわけです。それ故に、司法ソーシャルサービスには基本となるべき理念が必要であり、それには仏教理念が最も有効ではないかということに気がついたわけです。それで、更生保護は司法福祉のなかのとくに重要な部門を占めると考えました。司法福祉には、他にもいろいろあります。家庭裁判所の家事調停、離婚問題、こういうことも司法福祉ですし、警察や刑務所内での矯正教育も司法福祉の分野に入ります。
実は、『涅槃経』「梵行品」に、こういう譬え話があります。親鸞聖人も『教行信証』に引用しておられます。
「七子の中に、(一子)病に遇えば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなわち偏に重きがごとし。大王、如来もまた爾なり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなわち偏に重し。」(聖典・260頁)
すなわち、如来は、病気の子がいれば、たとえ兄弟が多くてもその病気の子を1人っ子のように大事に育てるように、罪者に対しても同じ慈悲をお持ちであると。こういうことを仏教で学んだわけで、それが私の処遇の方法に影響を与えているのではないかと思いました。
それから、更生保護の仕事が依拠する法律は「更生緊急保護法」でしたが、現在は「更生保護事業法」に変わっています。けれども、まだ、当時と変化がないのは「犯罪者予防更生法」です。これらの法律に拠って更生保護事業を行うのですが、「犯罪者予防更生法」には「犯罪予防の活動を助長し、もつて、社会を保護し、個人及び公共の福祉を増進することを,目的とする」と、更生保護は、福祉を目的とするということが、はっきりと書いてあるということを、まず知ったわけです。
そして、「犯罪者予防更生法」第34条1項に、次のような言葉があるのです。保護観察が、更生保護の1番大事な仕事なのですが、「保護観察は、保護観察に付されている者を、第2項に規定する事項を遵守するように指導監督し、及びその者に本来自助の責任があることを認めてこれを補導援護することによつて、その改善及び更生を図ることを目的とする」(傍点,講者)と。私は「自助の責任」という文言が、大事だなと思いました。仏教では「一切衆生悉有仏性」と言います。生きとし生けるものは、みな仏になる資質を持っている。この考えが大乗仏教の基本ですよね。それが、「自助の責任があることを認めて」の条文に通じるのではないかと思いました。そうすると、私が培ってきた仏教理念のなかに、ひとりでにこういう精神が染み付いていて、今の仕事ができているのではないかと考えたわけです。
法律に宗教的な理念があることを不思議に思っていたのですが、「犯罪者予防更生法」や「更生緊急保護法」の作成に携わった大坪与一という方の『回顧録』があります。その『回顧録』のなかで、大坪氏は、「罪を犯した人は世間から冷たい目で見られ、本当に気の毒な人たちである。彼らにこそ、本当に温かい手を差し伸べるべきであるということを、この現場の人たちに、そういう精神を身につけて指導して欲しいという願いを込めて、わざわざ「自助の責任」という言葉を草案に入れた」と書いてあるのです。私は、この『回顧録』を読み、納得したのでした。
三 仏教カウンセリング
また、更生保護施設では、対象者と毎晩1対1で話をしますから、自然とカウンセリングという技術が必要になります。そこで、私はカウンセリングの勉強をしました。そのなかで、当時、カウンセリングの方式で1番重要視されていたのが、実は「ロジャーズの非指示的カウンセリング」と呼ばれるものでした。それは、完全に指示をしないで、まず相手の言うことを聞く。聞いた言葉を繰り返して反射する。そしたらまた、相手から返ってくる。こうして対話を重ねているうちに、いつの間にか指示をしないのに、来談者が、自分自身の生きるべき道を、自分自身で見出していくというのです。
私は、原始仏教を学んできたのですが、このロジャーズ氏の方法に触れて、その観点から、『原始経典』を読み直してみました。すると何と、『経典』が、カウンセリングの記録として読めることに気がついたのです。そうした問題・関心から読み直すと、まさに釈尊は、偉大なカウンセラーであったのです。私は見よう見まねで、釈尊のカウンセリングの方法で対応してみました。上手くいくという実感も得ました。そのカウンセリングのことを仏教では、「対機説法」といいます。私は、「原始仏教における対機説法の体系」という修士論文の副題に、「仏教カウンセリング試論」と付けて大学に提出しました。その論文の序文を、『犯罪と非行』という雑誌に投稿しました。すると何と、その論文が巻頭論文に採用されました。私は、その仕事を7年間しました。またその間、保護司も拝命しました。保護司としては、更生保護施設を辞めてからも続けて、もう45年です。私としては、仏教カウンセリングを実践しているのであり、司法福祉の理念には、やはり仏教理念が必要なのであると思っています。
その後、私は大谷大学に研究の職が与えられまして、更生保護施設を辞めました。その時に、私も学問をするからにはと思い、「仏教カウンセリング」を学びました。しかし、もともとカウンセリングには、心理学という深い体系が必要です。同じように、仏教カウンセリングと私が言っていますが、仏教カウンセリングには、仏教心理学という理論づけや体系が必要であることに気がついたわけです。そこで、私は、「アビダルマ」という仏教哲学・仏教心理学、「唯識」という仏教の深層心理学を大学で研究するようになりました。
四 ある西欧のソーシャルワーカーとの出遇い
30年前の話ですが、その頃、あるイギリス人女性のソーシャルワーカーが、私を訪ねてきました。目的は何かと言えば、イギリスの保護観察官をしている彼女曰く、イギリス、西欧のソーシャルワークには限界があると気がついた。何とか、それを打開する手立てはないかと思って一生懸命勉強をした。すると、鈴木大拙先生の本に巡り合ったと。鈴木先生は、大谷大学で40年間教授を勤めていたわけですが、その鈴木先生のある著書に巡り合ったとのことでした。
とくに驚いたのは、『禅と精神分析』という本のなかで鈴木先生は、人間関係で1番大事なのは、カウンセラー(助ける側)とクライアント(助けられる側)という人間関係があった場合に、カウンセラーが普通は高い立場から相手を助けるという感じだが、カウンセラーは、「その対象者のなかに、まっしぐらに潜り込むことだ、これが大事だ」と述べられている。彼女は、その言葉に驚き、日本の社会福祉と仏教を勉強するために来たわけです。東京の日本社会事業大学に吉田久一先生という社会福祉の第1人者がおられたのですが、その吉田先生のもとで勉強されました。たまたま、私が『犯罪と非行』に出した論文を読んで、私にアドバイスを求めに来られたのでした。
彼女は2年間の留学を終えて、英語で論文を書いて帰国しました。その題名が、「ソーシャルワークにおける仏教理念の活用」でした。その論文には、大変素晴らしいことが書いてありました。私が更生保護施設で感じたことを、その西欧のソーシャルワーカーが、仏教に学んで、英語で素晴らしい論文を書いたのです。そこで、私たちの仲間で、仏教司法福祉研究会という会をつくり、彼女の論文の輪読会をしました。さらに、その論文を、社会福祉法制の第1人者である桑原洋子先生を中心とする5人ほどのメンバーで翻訳して『犯罪と非行』に掲載してもらいました。そうすると非常に反響がありました。その後現在まで、仏教司法福祉研究会というのは続いています。その成果が、『仏教司法福祉実践試論』『司法福祉と仏教』という私たちの共著(いずれも信山社刊)です。
彼女の論文の要点はこうです。彼女が西欧のソーシャルワークに限界を感じたのは何かというと、いわゆる福祉漬けの問題でした。社会福祉は、もちろん国の責任でもあります。それから、またボランティアの場合もあります。とにかく裕福な人が、貧困な人を助ける。あるいは看護師さんが病人を看護するなど、強い側にある人が弱い側にある人を助けるという構造が基本的には社会福祉です。
ところが西欧では、社会福祉が非常に完備してくると、この福祉に対する甘えが出てくる。それで司法福祉でも、更生保護会補導員や保護司が当然助けてくれるものだと、対象者はそう思い込み、自ら自立しようという気持ちが起きない。これが問題点であるというわけです。そこで、彼女は、西欧のソーシャルワークの源泉を調べた。すると『聖書』に行き着いたのです。「よきサマリア人の譬」が、『新約聖書』の「ルカ伝」に出ています。これは、「汝の隣人を愛せよ」という、あの有名な言葉が出ている箇所です。隣人を愛することは、非常に大事なことです。これは、私たちにも必要なことです。
でも、そこに出てくる譬え話の「よきサマリア人の物語」が問題だというのです。ユダヤ教の律法学者がイエス・キリストを試して、「本当の隣人とは、いったいどういう人ですか」と。「じゃあ、この譬え話を聞きなさい」と、キリストが話しました。中近東の砂漠地帯でのことです。よきサマリア人は、強盗に遭って立ち往生している被害者に出会った。彼はすべてのものが奪われ、傷にも手当てが必要で、最寄りの宿屋に運ばれなければならなかった。彼が独り立ちできるには、長い年月を要するであろう。そこで、豊かなサマリア人は、その被害者のために、諸事万端整えたうえで、必要ならばいつでも援助する旨、宿屋の主人に言い残して立ち去った。それで、「本当の隣人とは誰ですか」と、キリストが律法学者に尋ねるのです。律法学者は、「その隣人を助けた人です」と答える。「じゃあ、そのようにしなさい」とキリストが言う。これで終わりなのですが、西欧の社会福祉はこれが源泉となっているということです。
ところが問題は、今日の福祉漬けなのです。彼女は、この強盗に出遭い被害に遭った被害者が何も言動していない、そこが問題だと言います。助けられただけでは、本当の福祉にならないと。これが、彼女の疑問でした。それで日本に来て、仏教を勉強したのです。仏教説話に今の「よきサマリア人の譬」に相当するものを探したが、なかなか見つからなかった。しかし、彼女は『譬喩経』のなかに、「広野の旅人と狂象の譬」を見つけたのです。それは、次のような話です。
昔ある人が荒野を彷徨っていた。ところが狂った象に襲われた。彼はびっくりして逃げたが、なかなか隠れ場がない。ふと見ると、枯井戸があり、木が立っていた。そこに垂れていたその木の根にしがみついて隠れた。ところが何と、白と黒の2匹のネズミが、代わる代わるその根をかじって、今にも切れそうだ。そして井戸の4隅を見ると、4匹の毒蛇が噛み付こうとしている。では、下に降りようと下を見たら、毒龍が今か今かと待ちかまえている。万事窮すと恐れていると、その木にはハチの巣があり、木が揺れるとハチミツが落ちてくる。旅人はすべてを忘れて、そのハチミツを舐め始めた。しかしまた、そのハチがやってきて刺したりする。おまけに、その井戸の外では山火事が起きて木を焼き尽くそうとしている。「これを見て比丘たちよ、どう思うか」と、釈尊は比丘たちに問いかけて考えさせます。彼女はこの話を見つけ出して、ここでは被害者がしている行動が、まざまざと描かれているではないかと。また、おまけに、その被害者がもがいている所にハチミツが落ちてきて、それを舐めることで今度、自分の置かれている立場を忘れようとしているではないか。この経典は、読んだ人に、この被害者は何とかしなきゃならないのにという、やきもきするような印象を与えてくれると。
そうなると、これは、いわゆる被害者が主人公になっている。社会福祉も、カウンセラーが主体でなくて、クライアントが主人公になるような、そういう福祉。それこそが、本当の福祉じゃないかと。クライアントがひとりでに立ち上がっていけるように努力する、そのことをカウンセラーは、援助しようとするだけである。知るのではなくて、覚ろうとする、そのことが必要ではないかと。そういう趣旨の論文を彼女は書きました。