もし法を聞けば つとめて求めよ
「のんきでエエなあ、君たちは」
先師は言われました。
「頭燃を払う、ということがあるやろ。頭に火がついたら他のことはほうっておいて、何が何でも消そうとするやろ、あれや。仏法は尻に火がついたぐらいでは間にあわんのや。頭に火がついたぐらいでもまだ足りん。全身火だるまになって飛び込まなあかんのや」
私はとまどいました。寺の子に生まれたぐらいで仏法に出会っているなどとはとても言えませんが、道を求めるとはそれほどのことなのか。それならばせめて3日間ぐらいは「そのつもり」になって師のもとで過ごしてみようと思い、必死なって勉強もし、師に食い下がりました。
ところが、そんな気持ちは丸1日ともたないのです。2日目になるともうそこに1分でもいるのが嫌になり、寺を逃げ出してバス停に急ぎました。
するとそこへ師が現れたのです。「全身火だるまを実践するつもりでしたが、僕はとうていそんなことのできる人間ではないことがわかりました」と打ち明けると、師は「ハハハ」と笑われました。
「何事も低いところから高いところへ、浅いところから深いところへ入っていくんや。仏法もそうや」
「最初に全身火だるまにならなくてもいいんですか」
「そんなのは意識してなろうとしてもだめなんじゃ。知らんうちにそうなっとるんや」
「では僕みたいないいかげんな人間でも仏法を求めていけるんですか」
「誰だっていける。最初はな、あこがれみたいなもんから入るんや。あの人はすばらしいな、自分もあんな人間になりたいなというぐあいや。次は信用や、これは頭で納得しとるだけやな。次は信頼や、心の底から信用する、求めようとする願いが知識でなく経験になるんや。その次は信、これは真実と出会うんや。真実いうたって言葉では言えんものやけど、まちがいなくそういうものを発見するんや。そしてそれが絶対の信になる」
「人生のすべてがそれで整うんすごいですね、そんなふうになれたらいいですね」
「アカン、絶対の信ぐらいでひとりよがりになってウロチョロしとってはあかんのや。もっと先に肝心なことがあるんやで」
「エッ、まだあるんですか」
「それはな、他力の大信心というんや。自分の世界を打ち破って自由目在になるんや。どう目由自在かというと、いつでもどこでも自由自在に全身火だるまになれるんや。それでようやく仏法を聞く人間になったということや」
それだけ言うと、師は手を振りながらバス停を去っていかれました。その日からすでに30年近い歳月が流れていることに驚くやら呆れるやらの今日この頃です。
太田 浩史(1955年生まれ。富山県在住。
高岡教区大福寺住職)
『今日のことば 2007年(11月)』
※『今日のことば2007年版』掲載時のまま記載しています。