死というものは生を否定するものではございません。
死を抜きにしたら、生はただだらしなくぼやっと広がっていくだけでございます。そこには何の輝きもないし、何の感動もない。逆に、この身が死ぬという事実に本当に真向かいになった時、いま生きているということがどれほど深い、尊いことであるかに気づかされるのでしょう。
田中美知太郎という京都大学のギリシャ哲学の先生の言葉に”死の自覚が生への愛だ”、こういうことをおっしゃっております。
この私が死ぬということを本当に自覚した時、ひとときひとときがかけがえのないいのちとして疎かには生きられなくなる。死の自覚が生への愛だと、そういう言葉を残しておられます。
私どもは、「生きてある」ということを、「生」というものを、かけがえのないこととしうなずかされるということがございます。そういういのちでございますね。いのちというものはただ一人ひとりバラバラにあって、そしてお互いに自分の思いで主張し合って生きているというものでは決してない。現実はともすればそういうかたちをとっておるわけですけれども、この身に受けておるいのちは、周りと比べて一喜一憂しなければならないような、そんなちゃちないのちじゃない。
この身に受けているいのちは、限りないつながりと、限りない関わりのうえに賜った「いのち」であり、それは私の生死を貫いて、私のうえにはたらくものだということが教えられるわけでございます。
『生と死』(東本願寺出版部)から・宮城 顗(九州大谷短期大学名誉教授)
『真宗の生活 2007年(12月)』
※『真宗の生活2007年版』掲載時のまま記載しています。