智慧ではなく知恵。
安らかで穏やかな日々を望む。
世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ
親鸞聖人御消息(出典 『真宗聖典』569頁)

()のなか安穏(あんのん)なれ」-親鸞聖人(しんらんしょうにん)が開示なさったお言葉であります。
「安」の字は、女性が家にやすらぐ様子を現しています。
「穏」は、穀物の穂を操みほぐし、収穫する人の働く姿を現しているのでした。豊かな実りと、女性が家にやすらいでおれる日々、それこそ万人の願いでありましょう。

とはいえ、人間の世界には、常に戦争の業火(ごうか)が燃え盛っているのでした。人間が人間と殺し合うのであります。第二次世界大戦の末期には、広島と長崎に原子爆弾の巨大な火柱が吹き上がりました。

人間は「安穏(あんのん)なれ」と願いながら、その深い願いに自ら(そむ)いているのであります。親鸞聖人のご和讃(わさん)がありました。

よしあしの文字(もんじ)をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪(ぜんまく)の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり  (『真宗聖典』511頁)

人間は「よしあしの文字」を知っています。しかし、その文字の知恵が黒闇(こくあん)となり、戦争という地獄を生むのです。明治の福沢諭吉(ふくざわゆきち)はその「文字」を「文明開化」の「道具」と見なす一方で、日清戦争が勃発(ぼっぱつ)すると『日本臣民(しんみん)の覚悟』を書いていました。人の種が尽きるまで戦えと呼びかけている。第二次世界大戦のときには、その文字の知恵は「鬼畜米英(きちくべいえい)」「滅私奉公(めっしぼうこう)」という(げき)になっています。

今日のイラク戦争の地獄にも、「文明対野蛮」を戦争の大義とした「善悪の字しりがお」が横たわっています。現代の地球規模の環境破壊も、同じ知恵の闇の仕業(しわざ)でありましょう。人間とは「善悪の字しりがお」になったとき、深い心底の願いと真実の喜びを見失うのでした。鎌倉時代にも武家がその「よしあしの文字」の知恵と刃をその手に握っています。

親鸞聖人は念仏一筋に生きようとした性信坊(しょうしんぼう)が、その時代の冷酷な(さば)きの場に立たされたとき、励ましのお手紙を書かれたのでした。

「性信坊ひとりの、沙汰あるべきことにはあらず」

と、まず告げておられました。そして、述べられた。

「わが御身の料は、おぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をもうしあわせたまいそうらわば、めでとうそうろうべし」

と。この「めでとうそうろう」は、まさに「善悪の字しりがお」の「おおそらごと」を生きる人に真っ直ぐ向けられています。

親鸞聖人は、人間の自力作善(じりきさぜん)を厳しく見据えておられたのでした。

「おおよそ大小聖人・一切善人、本願の嘉号(かごう)をもって(おのれ)が善根とするがゆえに、信を生ずることあたわず、仏智(ぶっち)(さと)らず。かの因を建立せることを了知することあたわざるがゆえに、報土に入ることなきなり」  (『真宗聖典』356頁)

と。戦中の「一億玉砕」の思想は、仏を否定する「自力」の闇にほかならなかったのであります。

明治の福沢諭吉は、まさしく「自力」の「実学」に立っていたのであります。今日もその闇は深く行き渡っています。戦後の焦土のただ中から生まれた平和への願いと憲法が、改定されようとしている。
「三願転入」を誓われた仏の真実が、いま深く願われます。

阿弥陀(あみだ)の第18願こそが、人間の根本を開いているのであります。親鸞聖人は明示(めいじ)なさっていました。

「わが()往生(おうじょう)一定(いちじょう)とおぼしめさんひとは、(ぶつ)御恩(ごおん)をおぼしめさんに、御報恩(ごほうおん)のために、御念仏(おんねんぶつ)、こころにいれてもうして、()のなか安穏(あんのん)なれ、仏法(ぶっぽう)ひろまれと、おぼしめすべしとぞおぼえそうろう」

と。「世のなか安穏なれ」とは、阿弥陀仏の大音声であります。

高 史明(1932年生まれ。神奈川県在住。作家。在日朝鮮人2世)

『今日のことば 2008年表紙』
※『今日のことば2008年版』掲載時のまま記載しています。

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