聞法の場に夫婦共に身を置くこと。自然なことのようで、なかなかお目にかからない光景です。縁瑞寺住職と坊守とは、法座で何度もお会いしてきました。ご夫婦共に聞法される姿に美しさを感じ、このたびお話を伺いました。
馴れ初めをお尋ねすると、お二人共、「親鸞聖人の話を語り合える人と人生を共にしたい」と思っていたとのこと。そのような想いを抱いていたお二人が、お見合いによってご縁をいただきました。
住職よりいただいたお話です。
「私は40代の時に癌を患いました。そのことで、それまでお寺を護るためにひたすら働いていた私の内面が変わりました。人生を見直す機会になったのです。自分事として聞法し、病をいただいた身だからこそ聞けることがあるのだと思えるようになりました。「たまわりたる信心」「親鸞一人がためなりけり」ということばが、病との出遇いによって頷けました。
でも、夫婦共に聞法していると言われるけれど、聞いている周波数は夫婦それぞれ違います。私(住職)が響いた内容も、妻(坊守)にとっては、「そんなお話してました?」だし、妻が感動したお話も、私にとっては「そんな話してたっけ?」です。
私にとって響くことばであっても妻には響いていません。響いていないというか、妻は妻で一所懸命に人生を歩み、自分事として聞法し、その中で響いていることばがあるのです。聞いている内容はバラバラなのです。聞いている周波数は違うけれど、聞法の場に身を置くことが大事だと思います。それだけに、私たち寺に住む者は、法に出遇う場として寺を開くことが不可欠です。寺の経済状況を成り立たせるために「仏事の回復」といっても、ご門徒のこころは引き止められません。「聞法者たれ!!」。お寺を成り立たせるも崩壊させるも、そのひと言に尽きます。
夫婦で聞法していることが尊いわけではありません。聞法によって物事の解決が得られるわけではありません。しかし、親鸞聖人のおしえをいただくことによって、日々の生活(悩みや苦しみ)を振り返らせてくれます。そして、そのことを語り合えます。「今のお話どう思った?」「そんなこと言ってたっけ?」。噛み合わなくてもいいのです。結論なんか出なくてもいいのです。おしえにふれてこそ語り合えることがあります。夫婦という関係だけではなく、ご門徒と寺族だって、聞法を通して語り合える共通の場が醸し出されてきます。そのような関係を持てるようになることが「仏事の回復」なのではないでしょうか」。
日々の生活をしながらの聞法・語り合いが、人と人との関係を深めてゆきます。縁瑞寺住職と坊守は、たまたまご夫婦であっただけのことでした。聞法によって結ばれる関係。実は、私たちはその関係の中に生まれ、生きているのです。その事実をおしえていただきました。
(東京教区通信員 白山勝久)
『真宗 2011年(12月)』
「今月のお寺」東京教区山梨組縁瑞寺
※役職等は『真宗』誌掲載時のまま記載しています。
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