2018年4月2日にお勤めする全戦没者追弔法会。法要、記念講演後、参拝接待所視聴覚ホールにて開催されるシンポジウムでパネリストとしてご登壇いただく平塚淳次郎さんをご紹介します。
2018年全戦没者追弔法会、記念講演後のシンポジウムのパネリストとしてお招きする平塚淳次郎さん
2018年全戦没者追弔法会、記念講演後のシンポジウムのパネリストとしてお招きする平塚淳次郎さん。
◆プロフィール

平塚 淳次郎(ひらつか じゅんじろう)
アレン・ネルソン平和プロジェクト元代表高校で英語教諭をつとめ、退職後、アレン・ネルソンさん(※)の通訳を約10年間つとめた。現在は、「宝塚9条の会」や、アレン・ネルソンとの出会いをとおした活動を語る取り組みを続けている。1935年生まれ。現在83歳。兵庫県宝塚市出身。

※アレン・ネルソン:1947年生まれ。アフリカ系アメリカ人で、海兵隊員としてベトナム戦争の前線で戦う。帰国後の戦争による精神的後遺症から立ち直った後、日米両国で精力的に講演活動を行い、戦争の現実を訴え続けた。2009年3月死去。2017年の全戦没者追弔法会のシンポジウムパネリストである佐野弘明氏住持の光闡坊に納骨されている。

 

★★全戦没者追弔法会のシンポジウムで語りたいこと★★
◆アレン・ネルソンさんの思い

平塚さんは高校の英語教諭を定年退職して3年経ったとき、知人からベトナム帰還兵のアレン・ネルソンさんの講演の通訳を頼まれました。アレンさん50歳、平塚さん63歳の時、これが最初の出会いです。

講演では、アレンさんの語るあまりにも凄惨な戦争の現実に、通訳の言葉が詰まることが何度もあったそうです。アレンさんはベトナム戦争で兵士として戦い数えきれない人を殺しました。殺したという苦しみ、罪の意識にとても苦しんできました。アレンさんの率直で赤裸々な戦場体験の告白とその経験に基づく絶対的な非戦・平和の願いを、多くの人に、とくに若い人に聞いてもらいたいと思ったのが、今も平塚さんの活動を続ける力になっていると話してくださいました。

◆基地のない沖縄を目指して-9条の重み-

アレンさんは1995年、沖縄で12歳の少女が在日米軍兵士から暴行され、そのことの大抗議集会が沖縄で行われているニュースをアメリカで目にしました。そのとき、ベトナム戦争もとっくに終わっているのに日本にまだ基地が存在するという事実に愕然(がくぜん)とし、いても立ってもいられなくなったそうです。そして、1996年、約30年ぶりに沖縄の地を踏んだのです。それから亡くなるまでの13年間、1年の半分は日本での講演活動に費やしました。

講演では、必ず「沖縄に基地はいらない」と訴えてきました。軍事基地と平和な市民生活の共存はあり得ないと知っていたからです。

そしてアレンさんが言い続けたのは、憲法9条の素晴らしさでした。アレンさんは初めて9条を読んだ時、跳び上がらんばかりの感動に打ち震えたそうです。キング牧師かガンディーが日本のために書き与えたのではないかとさえ思ったとお話しされていたそうです。

講演でアレンさんは「この憲法があったが故に日本人は戦争で殺されずに、そして殺さずに済んだ。9条は存在意義を世界で発揮している」と話し、「日本の憲法9条をアメリカにこそ欲しい」「人類の未来への希望の灯」と言い続け、その言葉を平塚さんは通訳として伝えられてきたのです。

◆被爆2世の生徒を亡くして-今につながる思い-

一方、平塚さん自身も、1975年、担任した被爆2世だった教え子が白血病で亡くなっていくのを見届けました。担任教師として、とてもつらいこの経験が、核や戦争の惨禍を二度と繰り返さないために9条を守る運動にもつながってきたそうです。

9条を守りたいという思いはアレンさんと出会ってさらに強くなります。9条が単なる理想ではなく、多くの悲しみがその背景にあるのだと、アレンさんの話をとおして実感したからだと言います。

1935年生まれの平塚さんは終戦の年は10歳で、国民学校の5年生。当時の日本の平均的な「愛国少年」「軍国少年」だったと言います。そんな平塚さんも教師になり、それなりに平和の大切さ、いのちの大切を語ってきたつもりだったといいます。しかし、被爆2世の教え子を見送ったこと、アレンさんとの圧倒されるような出会い、そしてそのアレンさんもベトナム戦争の枯葉剤の影響で2009年に亡くなったこと。こうした経験から、戦争はその瞬間だけで終わるものではない。その場、その人たちだけの問題ではない、ということがはっきりしたのだと平塚さんは語ってくださいました。

今回のシンポジウムでは、平塚さん自身の活動の原動力となった、アレンさんとの出会いや教員時代に被爆2世の教え子を見送ったご経験、そして現在の思いを語っていただきたいと思います。

(文責:全戦プロジェクト記念講演・シンポジウム班)