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― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈4〉 大河内了智
(『すばる』725号、2016年10月号)
「真宗大学第十期卒業写真 大河内了智 部分(大谷大学真宗総合研究所蔵)」
1、大河内了智の経歴
大河内了智(1876~1917)は愛知県豊橋市花園町に所在する應通寺(岡崎教区第4組)の11世住職となった人物で、宗門系学校にて学問研鑽した当該地域屈指の知識人です。また資性温雅で和歌、俳諧、絵画をよくし、製陶にも通じていたとも伝え、文化人でもあったようです。
明治9年(1876)生まれの了智は、明治22年(1889)、真宗大谷派の地方における教育機関の一つである三河教校に入学しました。同級生に山田文昭(1877~1933)、一級上には佐々木月樵(1875~1926)、舟橋水哉(1874~1945)がおり、真宗大谷派の名だたる学者となった人びとと共に学生生活を送る環境にありました。
その後、真宗東京中学などを経て、明治30年(1897)、真宗大学へ進学しています。この頃から了智は、執筆活動を行っていたようです。真宗大学の校友誌『無盡燈』の評論欄に「鐡鷲」の筆名で小論を発表しています。この雑誌には、主に真宗大学生が執筆した、研究論文や評論、また宗教界の動向に関するものから漢詩や俳句まで掲載されており、当時の真宗大学における学風を伝えています。大学在学中に単著を出版しているのも、このような言論空間に接していたからではないかと考えられます。そして明治35年(1902)、了智は真宗大学本科第1部の第10期生として卒業しています【写真】。
2、了智を生み出した應通寺蔵書
應通寺には近世から近代にかけて蔵書群(以下、「應通文庫」と称する。同朋大学仏教文化研究所蔵) が形成されていきました。
應通文庫は85部173冊の書物で構成されています。刊本が68部、写本が17部であり、部数の8割近くを刊本が占めています。江戸前期から昭和期まで幅広い年代にわたりますが、江戸後期から明治期に出版あるいは書写・入手した書物が多くあります。当文庫において最も特徴的な点は、仏教書が59部114冊あり、全体の6割強を占めていることです。真宗寺院における蔵書の典型例と言えます。
文庫の所蔵者として確かめられるうち最も多いのが了智で、23部あったことが、蔵書印や署名から分かります。そのうち最多の9部が仏教学の書物であることから、了智は仏教学の研鑽を重視していたことがうかがえます。
次いで真宗書が7部あります。例えば『文類聚抄 愚禿抄 入出二門偈 合刻』は、本の書き込みから、明治29年(1896)11月、京都の五条高倉にあった為法館にて了智が、真宗第一中学寮の同級生である法専寺の大原善俊と、1冊ずつ購入したものと分かります。その際、了智は六条不明通上珠数屋町の法壽寺(京都教区山城第1組)に滞在していました。本山東本願寺近くの寺院を宿として学生生活を送っていた了智が、近所の本屋で真宗書を購入し、同級生と切磋琢磨して学問に励んでいた姿がうかがえます。
了智は自身で入手した書物のみならず、それまでに應通寺で所蔵されたものも含めて学問に活用したのでしょう。当文庫の書物には、施主または寄進人の記されているものが含まれています。例えば『冠註講苑倶舎論頌疏』は、向田昇之進の母や酢屋庄左衛門による資金援助により、京都の書林である澤田友五郎から購入して、應通寺さらには了智の蔵書となりました。このように、施主あるいは寄進人をともなって書物が購入されることは、仏教書あるいは寺院蔵書の特徴と言えます。つまり、これらの施主・寄進人の願いを受けて、僧侶の学問は形成されていったのです。近代の知識人・文化人である大河内了智は、このような環境の中で学問に励んだ1人でした。
■参考文献
市野智行・中川剛・藤村潔・松金直美「同朋大学仏教文化研究所古書目録―應通文庫―」(『同朋大学佛教文化研究所紀要』33号、2014年)
松金直美「僧侶の教養形成―学問と蔵書の継承―」(『書物・メディアと社会』シリーズ日本人と宗教―近世から近代へ第5巻、春秋社、2015年)