― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌を発行し、2018(平成30)年9月号で第748号を数えます。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!

真宗人物伝

〈6〉 達如上人
(『すばる』727号、2016年12月号)

「達如上人御影(安專寺所蔵)」

 

1、両堂再建

東本願寺20世の達如上人(たつにょしょうにん)(1780~1865、在職1792~1846)は、近世の東本願寺門跡10名のうちで最も長い54年間にも渡って在職しました。その86年の生涯では、東本願寺の4度の焼失すべてを経験するという苦難を味わわれています。

 

天明8年(1788)1月30日、京都大火により、東本願寺の両堂などが焼失してしまいます。その後、再建(さいこん)事業が進められ、寛政10年(1797~98)に両堂が再建されます。さらに享和元年(1801)3月15日、大門(御影堂門)の供養会が行われることで、一連の再建事業が成就します。同年、程なくして達如上人は、諸国の「門徒中」宛に、19世乗如上人(1744~92、在職1760~92)の黒衣・墨袈裟の御影を授与します。授与された地域ではその御影を巡回する行事を始め、能登(石川県)のゴソウキョウ(御崇敬)や湖北(滋賀県)のゴオツネン(御越年)など、現在も継承している地域もあります。

 

文政6年(1823)11月15日には、境内からの失火によって2度目の焼失に見舞われますが、その再建へ向けて教化活動が進められていきます。文政9年(1826)11月19日付達如上人御書には「其国にをいて、連々講をとりむすひ法義相続これあるよし、めてたくおほえさふらふ」とあり、各地に講が形成されて法義相続の場となっていき、それを達如上人が大変喜ばれていることが分かります。達如上人は、度重なる東本願寺焼失に直面しながらも、再建事業を機縁として教化活動を推し進め、聞法の場が開かれていくことを願われました。その願いが地域・時代を越えて広められていくことで、東本願寺は、4度もの再建事業を成し遂げることができたのではないでしょうか。

 
2、下向・参向両堂再建

精力的に活動をした達如上人は、歴代門跡の中でも多い14回もの下向(げこう)参向(さんこう)を行いました。下向は御坊(別院)などにおける法要出仕を主な目的として各地へ、参向は徳川将軍への謁見や日光社参のために関東へ赴くことです。

 

文政6年(1823)に実施された越後(新潟県)への下向に際して、各地では、熱狂・興奮する門徒らに迎えられた反面、そうした状況を批判的に受けとめる向きもあったようです。越後の領主らは献上品を進呈するなど厚遇しましたが、一方で厳重な警護体制をひいて、参詣・群集する人々へ対処しました。新潟県には、寺院や門徒宅に、これに関する様々な史料が伝来し、さらに「ゴモンセキサマ」と呼ばれる達如上人腰掛石(新潟市秋葉区)も残されているなど、その歴史が大切に伝えられています。

 

天保4年(1833)の関東参向で、道中の名古屋御坊(真宗大谷派名古屋別院、愛知県名古屋市中区)へ立ち寄った際、門徒らは講・同行中ごとの幟を立てて、門跡を歓迎しました。このような門跡の関東参向は、挿絵付の刷物や地誌というメディアを通して伝えられたことでも、社会的な影響力の大きさがうかがえます。

 

また下向・参向に際して達如上人は、親鸞聖人の御旧跡を巡拝しています。中にはそれを機に、本山と地域を結ぶ由緒が確かめられて、復興された旧跡もありました。数多くの僧侶・門徒と接する機会となった下向・参向は達如上人にとって、そのような人々に支えられる東本願寺のあり方を模索し続けることにもなったのではないでしょうか。

 

達如上人は4度の東本願寺焼失を経験するのですが、逆にそれを機縁として教化活動することで、新たな講・行事の構築や、御旧跡の復興を促し、そこに現代の真宗教団の基盤となるものが形成されたのでした。

 
■参考文献

松金直美「近代真宗における伝統性の構築-富山県西礪波郡刀利村の民衆世界を通して―」(真宗大谷派教学研究所編『教化研究』第163号、2019年)
松金直美「天保四年東本願寺門跡達如の関東参向」(朝幕研研究会編『近世の天皇・朝廷研究』第5号、2013年)

 

■執筆者

松直金美(まつかね なおみ)