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― 京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈10〉宣如上人
(『すばる』731号、2017年4月号)
「宣如上人寿像」(能登教区第5組・光琳寺所蔵)
1、継職を巡る争い
慶長19年(1614)、東本願寺が創建された時の門跡である12世教如上人(1558~1614、東本願寺在職1602~14,「真宗人物伝<1>教如上人」)の死去をうけて、宣如上人(1604~58、在職1614~53)が13世を継承しました。教如上人と側室・妙玄院如空の間に生まれた宣如上人は当時、わずか11歳でした。ただし、その継職が決定するまでには、紆余曲折を経たのです。教如上人の側室・教寿院如祐(おふく)らが、教如上人と教寿院の娘である教証院如頓の子、つまり外孫の熊丸を擁立しようとしたためです 。熊丸は、のちに天台宗僧・天海の弟子となり、天海没後に天台宗を管掌する立場となった、公海という人物です。
本願寺は、家督継承の証として3種の什物を伝えていました。すなわち、親鸞聖人の肖像画である「安城御影」、親鸞伝絵(康永本)、「本願寺肩衝」と称された茶入です。教如上人が所持していましたが、晩年、肩衝の茶入は、教如上人の寵愛を受けていた教寿院へ譲られていました。
元和2年の教如上人3回忌に際して定衆の堺源光寺が「教寿院は宣如上人に対する態度が悪いので、本願寺を追い出す」と、大声を上げて触れ回るという事件が起こりました。それを聞いた御堂衆の泉龍寺超賢は、教如上人の側近である宇野新蔵に「教寿院が宣如上人へ肩衝の茶入を渡せば、継職問題は解決するだろう」と言ったことにより、その日の内に教寿院から宣如上人へ渡されました。ところが偽物の茶入を渡したのではないかという噂もされたのですが、一応、本物であったと伝えられています。
2、東西両派間での争いと教団整備
本願寺の東西分派と東本願寺別立は、慶長7年(1602)に徳川家康から寺地を寄進され、翌慶長8年に妙安寺から親鸞聖人真影を迎え、元和5年(1619)に2代将軍秀忠から寺領安堵の朱印状を与えられるなど、段階的に進められました。
分派当初の東西本願寺には、それぞれを支援する家臣団と諸国に門末(僧侶・門徒)が存在しました。ただし諸国の門末には、いまだ所属を定め得ない人々も多くいました。そのような人々は慶長16年(1611)の親鸞350回忌に際し、東西本願寺の両方に参詣しました。そして東西の本願寺教団は、より多くの門末を自派へ取り込もうと画策します。他方から転派した場合、法宝物免許に際する礼金を免除・減額するという処置が取られました。それにより、門末が所属する本山を選び取ることを容易にしたとも言えます。
宣如上人が47歳である慶安3年(1650)、能登国鳳至郡剱地村の光琳寺へ授与した「宣如上人寿像」【写真】が伝えられています。当該地域の有力寺院へ寿像を授与することで、東本願寺との関係を強化しようと図られたものと考えられます。
このように東西本願寺は、競って門末を獲得しようとしましたが、西本願寺教団の内部においても、争論が起こっていました。幕府はこの争論が収束するまで、これ以上の混乱をさけようと、西派から東派へ帰参を要望する末寺に対して、それを留保するようにとの方針を示しました。そのことは、承応年間(1652~55)に、京都所司代をつとめた板倉重宗へ宛てられた宣如上人書状から知ることができます。近世前期における幕府の寺社行政では、本末関係の形成へ具体的に介入しないことが基本方針でしたが、この宣如上人書状から、一定の介入もあったことが分かります。
東西分派後の両本願寺とその教団は、決して安定的基盤を即座に形成し得たわけではありませんでした。17世紀はいまだ流動的な時期だったと考えられます。宣如上人は、その後、300年以上続くことになる近世真宗教団の基盤を作り上げるため、心血を注いだ生涯を送られました。
■参考文献
吉井克信「コラム 教如とおふく(教寿院如祐)」・松金直美「東西分派後の東本願寺教団」・山口昭彦「コラム 本願寺肩衝」(同朋大学仏教化研究所編『教如と東西本願寺』法藏館、2013年)
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