我 慢
著者:大江憲成(九州大谷短期大学名誉学長)
「いろいろあった。しかしこの家がこれまで順調に来られたのは、私がずっと我慢し続けてきたからだ。人生一にも我慢、二にも我慢」。
それなりにご苦労された方々からよく耳にする言葉です。
「我慢」。
自分の思いをグッと押し殺して忍耐する。
暮らしのなかでは、そのような意味で使われています。
ところでこの「我慢」という言葉は本来は仏教語なのです。日ごろ使っている言葉の意味とはまったく異なっているのです。
そこで、仏教語の「我慢」の意味を尋ねてみましょう。
「我慢」の「我」は自我の我。「我慢」の「慢」は慢心の慢。つまり我慢とは「自我に基づく慢心」を意味しているのです。
仏教語とは、すべての人々に向かって、どうかこの点を見失わずに人生を丁寧に生き通してほしい、と呼びかけてくださっている言葉です。
したがって、ここでは、自我に基づく慢心(我慢)に気づいてください。そして自分の思い込みを破って、どこまでもより深く豊かな人生を歩み通してください、という自覚を呼びかける仏さまからのメッセージなのです。
さて、我慢とは「自我に基づく慢心」ですが、まず私たちには「自我(我)」ということがよくわからないのです。なぜかというと、自我(我)とは、私たちの意識の奥底にはたらいていて、自分の都合を作り出している根であります。意識の奥底にはたらいていますので私たちは気づかないのです。自分が身勝手な存在であるなどとは自分自身では解(わか)りようもありません。だから仏さまの呼びかけに出会うことが大切なのです。
つぎに「慢心」とは、他と比較する心なのです。私たちは周りと比較して、他より勝(すぐ)れているとか、他より劣っているとか思ってしまい、時には優越感に浸って有頂天(うちょうてん)になってみたり、またある時には劣等感にさいなまれて落ち込んでみたりします。しかしその優越感と劣等感は同根であり、ともに日頃の心では気づかない我慢という根を持っているのです。つまり自分の思い込みを根としているのです。
本来人間の存在に優劣というのはないのです。ところが人間の思い込みに基づく比較する心、つまり我慢が人間を縛っているのです。
そこで私たち人間は、人間として気づかなくてはならないことが二つあることが知らされてまいります。
一つは、人間はみな比較を超えて無上なる自己をいただいて生きているということ。二つは、その無上なる自己に気づかなくてはならないのに、気づこうともせず鈍感にすませている自分自身があり、その根を尋ねること。
つまり根を尋ね、自我に基づく慢心(我慢)の根深さに気づくことで、人は独断を破ってさらに人生を歩み続ける者になるのです。
誠に、我が歩みの壁はほかならず自分自身にあるのです。
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版①)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。
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