凡 夫
著者:蓬茨祖運
我々は凡夫(ぼんぶ)という言葉をめったに使いませんが、出た時には、あまりよい場合には使いません。例えば子どもが台所にでも行って、そこにあった品でもひっくり返したりしました時、子どもでもそうしたことをしますと、「そそっかしい、気をつけて歩かないといかん。またひっくり返した」と、親は叱(しか)るんです。けれども皆さん方、自分がたまたまそういうことをしますと、「こら、なぜ気をつけて歩かんか」と、そんなことはいわないです。どういうかといいますと、「凡夫だから仕方がない」と、そういうのです。我が身のことは凡夫、子どものことになると凡夫でなくなってしまう。こういうようなことで凡夫という言葉は使われておりますね。
けれども、凡夫という意味は、環境のために支配されているものということです。これが凡夫です。自分の周囲に支配されて生きているということが凡夫です。それが子どもを叱る時にはそうでなくなっているのです。環境を支配しているという立場に立っておりますから、それで遠慮なく叱ることができるのです。子どもは環境に支配されるものであるから凡夫であると、そうわかれば自分も凡夫であるとうなずけるのですけれどね。そうでなくて、自分は環境を支配しているという立場にいるものですから、それで凡夫を認めることができない。たまたま我が身が環境に支配されているという立場になると、凡夫だからといって我が身を保つという、こういう意味でだいたい凡夫という言葉は使われております。
使う言葉が間違いなのではございません。本当にその言葉が使われたら、なるほど自分は人にはかれこれいうけれども、やはり環境に支配されて、そうして環境をどうかするという力は持っていないものなのだなということがわかれば、何も「凡夫だから仕方がない」ということはいう必要はございませんね。「あいすみませんでした」ですむのです。
何かそういうごくごく平凡なところに、非常に大事な、非常に深い意味がある。それがもしも自分にわかったならば、ものを見る見方が変わってくる。見方が変わるのでなく、自分をとりまいている周囲までが変わって見えてくるのでございます。
東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版②)より
『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。
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