法 友
著者:池﨑方子(金沢教区正林寺衆徒)
友人のS、彼女とは大学入学時に知り合った。彼女は人懐っこく、いつも友達の輪の中心にいたが、時々彼女の抱える「闇」が見え隠れしていた。複雑な人間関係に悩んでいたのである。私はそのような関係に目を背けながら生きる彼女に不安を感じつつも、数年が過ぎていった。
しかし、あることがきっかけで、Sはその「闇」と向き合わざるを得なくなった。それを境に、人と会うのが怖いと関わりを断ち、食事もまともにとらなくなった。かつての姿は見る影もなくなった。
しばらくして彼女は親鸞聖人の教えを聞き始めた。ひとまわり小さくなった背中のリュックにはいつも『真宗聖典』や本が詰まっている。「教えを聞けば聞くほど、自分の姿が見せつけられて苦しい」ともがきながら、ただまっすぐに自分と向き合う日々を過ごしていた。
少し落ち着いたころ、友達夫婦と私たち夫婦、そしてSの5人で輪読会を始めた。本の輪読をしながら、慌ただしい日常に置き去りにしてきたことを確かめるように語り合い、聞き合う。教えや他者の言葉が鏡となって映し出す私自身のありようを見て、逃げ出したくなることもある。にもかかわらず、そんな時と場、そしてそこに集う一人ひとりがいとおしい、彼女の静かなたたずまいが、そう語っている。
そして、彼女は仏弟子(ぶつでし)となる道を選んだ。法名(ほうみょう)は「釋尼瑞光(しゃくにずいこう)」。友人夫婦の娘をあやしたり、子を宿す私のお腹をさするたびに彼女は「まぶしい」とつぶやいた。私には苦悩しながらも仏の願いに応(こた)え、生きようとする彼女もまた、名のりのごとく、みずみずしく輝いて見えた。
Sは、お念仏の教えが、今、この身にはたらくものだということを知らせてくれる尊い存在となった。「法友(ほうゆう)」として出遇いなおすことができたのだと思う。Sの歩みをとおして、私自身の聞法の姿勢を振り返る機会をいただいている。
親鸞聖人が迷い、苦しみながらも生きていける道を七高僧をとおして、確かめ表現された「正信偈(しょうしんげ)」。それは、私たちにお念仏を申して、精いっぱい生きてほしいという時代を超えた呼びかけである。それに応え、気持ちを新たにする報恩講。今年は法友とともに勤めたい。
東本願寺出版発行『報恩講』(2015年版)より
『報恩講』は親鸞聖人のご命日に勤まる法要「報恩講」をお迎えするにあたって、親鸞聖人の教えの意義をたしかめることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『報恩講』(2015年版)をそのまま記載しています。
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