人間とは その知恵ゆえに まことに 深い闇を生きている
高 史明
法語の出典:『悲の海は深く』
本文著者:佐野明弘(光闡坊住持)
苦しいこと、つらいことが続くと人生は暗く感じる。楽しいこと、うれしいことなどがあると人生は明るく感じる。耐え難いことがあると生きてゆくことすら難しい。だから、苦を免(まぬが)れ楽を求めて生きようとする。人類の歴史がそのことを如実に物語っている。
現代に至って、日常生活の労働苦は多くが機械によって軽減され、医療の発達で多くの病に薬が開発されて、病苦を軽減している。しかし、それにもかかわらず、苦が減ったように思われない。それどころか世の苦しみが以前にも増して感ぜられる。なぜだろうか。
この事実は人間の求める方向に人間が助かること、あるいは満足することはないということを示している。さらに人間の求める苦から楽への方向は、ひたすら苦楽を往来する、閉じた迷いの世界であることを示している。仏法においては、この世は苦もあれば楽もあるということでなく、ひたすら苦楽を往来し続けるその全体を「苦」とおさえ、その世界を「生死流転(しょうじるてん)の際なき世界」と受けとめてきた。
親鸞聖人は、この苦楽を往来する閉じた迷いの世界を「世間」と呼び、これを「闇」であり、また「無明(むみょう)」であると押さえている。
阿弥陀の光の功徳(くどく)を讃える十二光仏の最後に、超日月光(ちょうにちがっこう)の名が挙げられている。月と日は、光ではあるがその意味するところはこの世の光である。世間の中の光、この世に私たちが光としているものは山ほどある。若さも光だろう。子どもがいることも光であろう。また、時に友と語ることも光であろう。書物を読むことも、また音楽を聴くことも、苦労が実ることも光であろう。しかし、どの光もいつでも確かに人間の光となるとはいえない。沈むということがこの世の光の宿命である。これを日月の光という。
光明月日に勝過(しょうが)するというのは、ただ世の光に比べてすばらしいというようなことではない。この世の光がみな私たちの光とならなくなるときが来るということを示している。この世の光が届かぬ闇を抱えているのが、人間の迷いの深さというものだ。この世の光では照らし出すことのできない深い闇。人間がその深い闇を抱えた存在であることを照らし出す光が超日月光である。闇を明るくするのでなく、闇であることを明らかにする智慧(ちえ)である。
この光に遇うたら、一切の光としているものが間に合わないと知らされる。我々はこの闇をうすうす感じているが、これをごまかしてきた。道を求めるといっても、何といっても、この闇を消す明るさを求めている。そしてそれを宗教と呼び仏道と呼んではばからない。
また、科学も思想も、すべて苦楽の世界、生死の中でのことに還元し、よって闇がいよいよ深い。その闇をごまかすのでなく、闇を消すのでもない。その闇に帰るのだ。楽しさ、明るさに帰るのでない、闇にこそ帰るのだ。闇を闇と知らしめたものは何か。それこそが光ではないか。
聖人は「闇」に対して「明」、この「明」は「出世」、世間を出た世界であり、それは「智明(ちみょう)」の世界であると言われる。この世間を出た世界から、私たちを照らし出し、迷いの身に呼びかえし、念仏申さしめて智明の世界に迎えとろうという。私たちの求めて行く方向ではなく、この出世間からの道、これを仏道という。
東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【2月】)より
『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。
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