浄土を生きる人生

著者:春秋 賛(金沢教区仙龍寺住職)


金沢の專稱寺というお寺に髙光かちよさんという坊守さんがおられました。九十歳を過ぎて数年前に命終(みょうじゅう)されましたが、あるとき、ご住職の用事で老体の身でありながら、ひとり金沢から東京へ出かけられました。そのときの出来事を何度もわたしたちに語ってくださったことがありました。東京に着いてから、目的地までの乗り継ぎがわからず、タクシーに乗りました。さっそく目的地を告げたところ、運転手さんからの「はい、わかりました」の返事がありません。返事のないまま車が動き出したので、あわてて、再び目的地を告げ、返事を求めましたところ、おどろきの声が返ってきました。「わしらは、あんたらをお客さんだと思っていない。荷物と思っている。だから荷物に口をきいたり、返事をする必要がない」ときっぱりと言い切られ、身震いのするような恐い思いをされたそうです。

ところが、普通、そのようなことを言われたら、我々ですと「人間を荷物あつかいにするなんて」と喧嘩(けんか)になるか、「こんな非常識な人間の車に乗るものか」と言って怒って降りるか、どちらかです。しかし、髙光さんにそのとき、南無阿弥陀仏の智慧がはたらくのです。まさに、そのいのちが髙光さんと一つになって、次のようなおどろくべき言葉を生み出すのです。「運転手さん、この荷物はね、遠い遠い金沢から電車にゆられ、古びて、もう壊れそうになっています。だから、どうか壊れないように、先ほど言いました目的地まで届けてくださいよ」と、荷物になられたのです。そして目的地に着くと、運転手さんから「おばあちゃん、着きましたよ」と今までと違った声で言葉が返ってきました。お金を払い終えると、「おばあちゃん、気をつけてね」と、運転手さんから優しさあふれる人間らしい言葉がまた返ってきたという、実際に体験されたお話をお聞きしたことがありました。

「いのち」がこのわたしと一つになって生きるということは、ご縁にまかせて、いのちという智慧が自由自在にわたしの身にはたらくということですね。そういうことを教えられる貴重なお話でありました。いのちが智慧となって、髙光さんは荷物になられ、そのことによって、今度は運転手さんが生きた人間にもどられた。ともに人間に成るとは、このようなことだと思います。「今という、そのとき、いのちが自由にはたらき、人間に柔軟心、つまり柔らかき、こころを生ぜしめる」。まさに、いのちの大地を生きるということです。

「人間の愚かさを知らされつつ、自信をもって凡夫と名のり、堂々と生きられたら、こんなに朗らかな明るい人生はないでしょう」このような生き方を、「浄土を生きる人生」と教えられました。


東本願寺出版発行『真宗の生活』(2014年版⑤)より

『真宗の生活』は親鸞聖人の教えにふれ、聞法の場などで語り合いの手がかりとなることを願って毎年東本願寺出版より発行されている冊子です。本文は『真宗の生活』(2014年版)をそのまま記載しています。

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