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-京都教区の大谷大学卒業生が中心となって結成された「京都大谷クラブ」では、1956(昭和31)年から月1回、『すばる』という機関誌が発行されています。京都市内外のご門徒にも届けられ、月忌参りなどで仏法を語り合うきっかけや、話題となるコラムを掲載。その『すばる』での連載のひとつである「真宗人物伝」を、京都大谷クラブのご協力のもと、読みものとして紹介していきます。近世から近代にかけて真宗の教えに生きた様々な僧侶や門徒などを紹介する「人物伝」を、ぜひご覧ください!
真宗人物伝
〈16〉関根仁応
(『すばる』737号、2017年10月号)
関根仁応写真(大谷大学本館背景、長徳寺所蔵)
1、生涯と宗門教育機関の変遷
関根仁応(1868~1943)は、真宗大学(真宗大谷大学、大谷大学)や宗門の要職を歴任した人物です。明治元年(1868)、越後国(新潟県)の安養寺(長岡市、草間姓)に生まれました。この年には、江戸時代以来の宗門における教育機関である学寮に、創設以来初めて仏教以外の「外学」(キリスト教など)を専門に研究・教育することを目的とした、「護法場」が設置されています。宗門の教育事業に挺身していくこととなる仁応の人生は、宗門教育機関の近代化への一歩とともに始まりました。
学寮はその後、貫練場→貫練教校→大学寮と名称を変えていきます。仁応は明治27年(1894)7月に大学寮専門本科を26歳で卒業しました。その大学寮は明治29年(1896)6月5日、真宗大学と真宗高倉大学寮に分離します。
明治32年(1899)8月、31歳で長徳寺(新発田市、関根姓)へ入寺した仁応は同年9月9日、真宗大学の事務方の長である主幹に任じられ、その後、大学運営に深く関わっていくこととなります。
真宗大学は明治34年(1901)に東京巣鴨へ移転したのですが、実現に至るまでには数々の困難がありました。それを主導したのが、初代学監(学長)に就任した清沢満之(1863~1903)であり、仁応も財政を始めとする諸問題へ、ともに取り組み、ようやく移転を果たしたのでした。しかし大学の方針に不服を募らせた真宗大学生による排斥運動で、翌年11月17日、仁応は主幹を辞任に追い込まれました。そして自坊・長徳寺のある新潟へ帰ります。
その後、仁応が真宗大谷大学主幹に復帰するのは、45歳になる大正2年(1913)2月3日です。同年11月9日には、それまで分離していた真宗大学と高倉大学寮を合併した「真宗大谷大学」が京都小山の地に移転され、新築校舎の落成式を執り行っています。
晩年、仁応は宗務総長(1936~38)や大谷大学長(1941~43)の重責を担っています。このように仁応の生涯は、大谷派の近代学事史と密接に関わったものでした。
2、『関根仁応日誌』
この関根仁応は、明治から昭和の長年に渡り、日誌を書き残しています。明治28年(1895)11月から大正元年(1912)までの分が『関根仁応日誌』全8巻(真宗大谷派教学研究所、2006~16年)として翻刻し刊行されています。
日誌には、東本願寺の両堂再建や宗門教育に関わることをはじめ、宗門近代史を検証する上で重要な内容が、詳細に記述されており、そのような意味でも大変貴重な史料です。
一方で自坊滞在中には、法務や近隣地域の門徒との交流についても記しています。特に、両堂再建へ多額の資金を寄附した豪農門徒との関係も述べられています。このように、近代の新潟における地域真宗史の一端を明らかにし得る史料とも言えるのです。
また明治44年(1911)4月に厳修された東本願寺の親鸞聖人650回大遠忌に際して、「越後団参」、つまり新潟からの団体参拝者を、一足早く京都へ向かって迎えた状況も書き記しています。ここから、各地域の門徒と本山を取り結んだ行事について、当事者の視点からとらえることができます。これまで宗門近代史を学んでいく上で、主に用いられてきた宗門機関誌や新聞などと違い、個人の視点を通してみる歴史像を、日誌は提供してくれるのです。
■参考文献
『関根仁応日誌』全8巻(編集・発行:真宗大谷派教学研究所、2006~16年)
松金直美「〔最近読んだ本〕真宗大谷派教学研究所編『関根仁応日誌』全8巻」(『歴史の広場―大谷大学日本史の会会誌―』20号、2018年)。
松金直美「『関根仁応日誌』にみる真宗教団史・地域真宗史」(教学研究所編『教化研究』第164号、真宗大谷派宗務所、2019年)
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