念仏もうすところに 立ち上がっていく力が あたえられる

西元宗助
法語の出典:『み仏の影さまざまに』

本文著者:白山勝久(東京教区西蓮寺衆徒)


苦しみにぶち当たっていたとき、行き着いた先が真宗本廟御影堂(ごえいどう)でした。ただ太い柱に寄りかかり、時間の過ぎゆくに任せていたところ、突然賑やかな声が堂内に響き渡り、幼稚園児たちが入ってきました。我先にと親鸞聖人の前に園児たちが集まり、正座をし、合掌し、歌い始めました。「しんらんさまが~おわします~♪」。聖人の歌であることに気付くとともに、その光景が瞼に焼き付きました。「この子たちは、親鸞聖人も、そのおしえも知らない。だけど、親鸞聖人大好きとばかりに楽しそうに歌っている。そうだ、しんらんさまが私と一緒にいるんだ。こんなに嬉しいことは、ないじゃないか」。

このときの出来事が、当時の私に立ち上がっていく力を与えてくれました。念仏申すところに喜びが、勇気が、新たな視座が与えられ、今まで真っ暗だった先行きに光が差した気がしたのです。

しかし、「立ち上がっていく力」について、私は思い違いをしていました。喜びの信仰体験の告白は、念仏が、なんらかの変化(好転)の手段であり、目的になってしまいます。念仏を称えて、どうにかなるわけではありません。どうにかするための念仏でもありません。

親鸞聖人が八十八歳のとき、国中が飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)に襲われます。常陸国に住まわれていた、聖人の弟子の乗信房(じょうしんぼう)が、生きとし生けるものが死に往く有り様を嘆き悲しみ、聖人にお手紙を書かれました。そのお手紙を受け、聖人は次のように返事をされます。

なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常(しょうじむじょう)のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。(後略)  (『末燈鈔』真宗聖典六〇三頁)

「生死無常のことわり…生まれたから死ぬという道理は、阿弥陀如来がかねてからお説きくださっていることであり、驚くべきことではありません」と聖人はおっしゃいます。厳しい一言ですが、生きとし生けるものすべてに平等に訪れる事実です。私たちは、平等に訪れる事実を忌み嫌いながら生きているゆえに、自身でも気付かぬ無明なる闇を彷徨(さまよ)い、おしえに向き合う機会をも失っています。聖人のおしえは、苦しみ悲しみを無くしてくれるものでも、緩和してくれるものでもありません。かといって、厳しい言葉でもって我々を戒めるわけでもありません。

生まれたものは、やがて死にゆく。その言葉に、縁によって生かされている身の事実が集約されています。自分にとって都合のいいことも悪いことも、すべてのいのち・すべての事柄によって織り成される事実です。

立ち上がるためには大地が必要です。「足が地に着く」という表現もあるように、大地を踏みしめるために〝この身〟があります。おしえに出遇い、生まれたものはやがて死にゆくという事実と向き合ったとき、私を立たしめる大地に気付き、その大地を踏みしめながら生きている我が身に目覚めます。阿弥陀如来の大地がすでにあるからこそ、私の足で一歩一歩踏みしめながら歩く(生きる)ことができます。その目覚めが、「立ち上がっていく力があたえられる」ということでした。


東本願寺出版発行『今日のことば』(2013年版【4月】)より

『今日のことば』は真宗教団連合発行の『法語カレンダー』のことばを身近に感じていただくため、毎年東本願寺出版から発行される随想集です。本文中の役職等は『今日のことば』(2013年版)発行時のまま掲載しています。

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